『乱雑にすると頭の働きがにぶる』の項
私達の実践徳目というものは、メシヤ様のご在世中のご日常を拝することにより自ずから明確になってまいります。
≪本文≫
明主様(メシヤ様)はよくお身廻りのものを整理されながら、『私は物の区分けや始末(しまつ)がうまいまら、屑屋(くずや)とか道具屋なんかやればいいな』とご冗談(じょうだん)をおっしゃいましたが、場所と物に応じ、整然と処理されるその周到(しゅうとう)さ、それは全くひとつの芸術でもあったと思います。そして、『どの戸棚の何番目の物を持って来い』とお命じになられても、決して間違いはなく、実に驚くべき正確さでありました。
かつて明主様(メシヤ様)は、『人は平素から自分の持物は、いつでもまに合うように始末しておく心がけが必要である。暗がりの中でも、入用なものを自由に取出せるくらいでなくてはいけない。放任乱雑(ほうにんらんざつ)にすると、それだけ頭の働きを鈍(にぶ)くするものである』と、静かに御教え下さいました(側近奉仕者)
≪解説≫
この文章からメシヤ様がご日常で何を心掛け、私達にどのようなことをお求めになられていたかを拝察することができます。
整然としたお方付けは『芸術でもあった』
まず、身の周りのものの整理の仕方が『ひとつの芸術でもあった』と記述されております。
「芸術」と言えば、とかく芸術品のことなど特別なものを連想しがちですが、片付け方や収納の仕方が『ひとつの芸術であった』とあります。メシヤ様の写真集を拝すると、花器をはじめお部屋の調度品等が名作揃いなので芸術品に囲まれた生活という観がありますが、所作そのものが芸術的だったのです。
『天国とは芸術の世界』という御教えが私達の胸に強く迫ってまいります。ご日常のご様子から、天国天人のお姿を垣間見る思いがいたします。
私達は日々メシヤ様を求めております。そして自らも天国天人に近づきたい、と願い精進に努めております。この項にあるお姿は、信仰者としての実践徳目を私達に指し示していると思われます。
私達の日常生活に対して『芸術的』な片付け、清掃、整理整頓を求められているのです。まずは課題として受け止め、実践に取り組みながら、やがて何気ない振る舞いの中でそれができるところまで極めたいですね。そのような境地に達することを目指さねば、本物の信仰者とは言えないことになります。
頭の働きを鈍くする
次に『放任乱雑にすると、それだけ頭の働きを鈍くする』と、御教えくださった旨が記述されています。
私達は知恵を磨きたくて御教え拝読に没頭します。ところが、拝読しようとする部屋やテ-ブルが乱雑であると、どうやら目的は達せられないようです。何故なら、放任乱雑は頭の働きを鈍らせる、ということですので、知恵を磨くことに繋がり難いのです。
前回、字面にとらわれてはいけない、というお話をいたしましたが、私達の御教え拝読が知識としてだけの習得に終わったのであれば、本来の在り方ではないことは周知の通りです。実践が伴わなければなりません。
また、整理整頓は健康な人でないとでき難いところがあります。微熱などがあると面倒臭くなりがちです。また、身体がだるかったりすると、まめに動けません。この御教えの実践のためには、浄霊をいただくことを普段に心掛け、真の健康を確保する必要があります。
さらには、人体というものは脳のために動いているという側面を持っていますので、逆説的に言えば、清掃を怠らず整理整頓を心掛けていなければ真の健康を維持でき辛いということになります。
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