入信について②―御神業を支える人の育成
御神業の中心は浄霊力の伝授なのですが、当初、浄霊力を伝授する場合7回にわたってお話をされております。これは「観音講座」として現代に残っております。私は、以前の教団では3回「入信教修」というものをするということになっておりましたので、それに従っておりました。しかし、各拠点の代表者に行なっていただく際に活用していただく「要綱」を昨夜考えておりまして、やはり7回は必要だという結論に達しました。
基礎的な話はそれ位時間を掛けないと中々伝わらないなあ、と感じる訳です。それで、現在は簡単に浄霊力は授けているのですけれども、御神業を支える一員になるということになりますと、違ってまいります。
『夜昼転換』によって火素が増量し、その火素を手の平を通して放射することによって浄霊力を発揮する、という話の中には、『夜昼転換』という歴史観と『霊主体従の法則』という世界観の二つの大きな御教えが前提としてあり、そのことを理解しなくては『浄霊の原理』を真に理解することはできません。
また、火素の増量に伴う『浄化作用』についての理解を深めておかなければ、浄霊を取り次いでゆく上で十分なお世話ができません。今回メシヤ講座でも触れたように、過去使用した薬によって浄化に伴う痛みが異なります。よく御教えを拝読しておかねばなりません。しかも、浄化作用はこうした身体的なものを含めて生活全般で起こってくる現象でありますので、深い研鑽を要します。
そして、こういうことを教えてくださったメシヤ様という方はどういう存在なのか、ということを良く判っておかなくてはなりません。そのために、今「『景仰』を如何ように拝読するか」ということを通して理解を深めていただきたい、と願っている訳ですが、自分は、どれ位メシヤ様のことを存じ上げているのかを確認していただきたいと思います。
それから、メシヤ様が進められようとされた御神業は「宗教改革」と「医学革命」ということで集約されております。「宗教改革」というと、マルティン・ルタ-を思い出すのだが、それとどう違うのだろうか、あるいは日蓮上人の目指した「仏教改革」とはどう違うのか、また、「医学革命」とはどういうものなのか、そうしたことをト-タルして御神業とは何なのか、ということが解ったところで、やっと信者ということになるのです。
信仰をするということ―人生の評価
ですから、入信教修というのはそういったことがお互いに解ってゆかないといけない訳です。「私はメシヤ教の信者です」と言って「どんな宗教ですか?」と尋ねられた時にどう答えてゆくのかを明確に描いておかねばなりません。宗教の伝道は「物語」なのです。体験と御教えが巧く紡(つむ)がれて、相手に伝わるのです。
そこで信仰をするということはいったいどういうことか、ということを今一度自問自答してみてください。御神体のあるご家庭では朝夕のご参拝をするとか、浄霊を普段にいただくとか、御教え拝読を重ねるなど、いろいろ挙げられると思います。それでは、それは何のために行なっているのでしょうか。
お互いにメシヤ教に出会った経緯や入信動機は様々です。それでは、それまでの苦労とか悩みというものは一体何なのか、どういうことなのか、を考えてゆきますと、自分達の人生の中でいろいろな苦労をして試行錯誤を重ねて、やっと最高最貴の神様に出会ったことなのだ、ということなのですね。
いろいろな宗教を経てきたとしても、そのことを通して最高最貴の神様へ段々と近づいてきた、ということです。ですから、新しい方へ入信教修をする時に、一番最初にこちら側にある大事なことは何かというと、「最高の神様に出会うために、さぞ色々とご苦労されたことでしょう」、「さぞ試行錯誤を重ねられたことでしょう」、「よくぞ辿り着きましたね」ということなのです。
言葉を変えれば、その人その人の人生の評価をして差し上げる、ということです。人生観というものが真っ先にあります。
では何故苦労しないと最高神へ辿り着かないのか、というと、このことについては「信仰読本」―宗教について―の中身を思い出してください。古代の人間生活そのものが宗教であり、その要素が遠心分離的に発展してきたのが現代の文化です。しかし、発展はしてきたが肝腎の「根本に宗教がある」ということを忘れてしまったために、現代社会は諸問題を抱えております。
古い魂は根本の宗教を覚えていますが、生まれ変わり死に変わりの繰り返しの中で外郭の心、精神は忘れているのです。それで、魂は‘この世は何か変だ’と気付き、本来の在り方を希求してきたのです。
僭越な表現になりますが、御教えというものはそういうことが判った上で構成されているのです。御教えを拝読する側がそうしたことを理解した上で読み進めてゆきませんと、「岡田茂吉全集」を持っていても理解が深まりません。
教祖誕生の経過と私達の姿勢
では御教えを垂れた主であられるメシヤ様はどういう存在なのか、ということになります。これも、「信仰読本」―教祖―をしっかり思い出していただきたいと思います。
一般的に教祖となる人は、天啓を受けるまで非常に苦労をするけれども、それは人を救う言葉を身に付けるためなのだ、ということが一つあります。ですから、信仰者というのは絶えず言葉を練ってゆかなければなりません。
御神前でいくら善言讃詞を奏上しても、日常口にする言葉が‘善言讃詞’になっていなくては何にもならないのです。
それから、天啓が下った瞬間に力が備わります。この力は、歌手や俳優のようにみんなで作り出すような力ではなくて、信頼関係がなくとも発揮される力です。どのように罵倒されようが、相手を救ってゆく力です。
救いの力は浄霊という形に昇華されておりますので、当然私達も、人から何を言われようとも手を翳(かざ)してゆける心を持たねばならないのですね。
私達は、入信教修をする側にあるのだけれども、入信教修をする前提として、日常的に言葉を大切にして、磨いて、練ってゆく心掛けをしなくてはならないのです。そして、人から後ろ指を指されても、平気で手を翳(かざ)してゆける強靭な心を持たねばなりません。
メシヤ様を見つめる時に、私達の課題として浮かび上がってくる内容はこの二つですので、‘自分も磨いてゆかないといけないなあ’と思った瞬間に、昼の神様の御心に適うような人間になることができるのです。
‘よし判った’と肯いて‘今日からやるぞ’ということで、言葉を練り始め‘どんな場面でも浄霊を取り次ぐぞ’と意気込んでみても、じゃあ明日から華々しく結果が出てくるか、というと、そんなことはない訳で、やはり同じような日常生活が続いてゆくのです。
御神業は小さいことの積み重ね
同じ日常生活が続いてゆくのですが、私達信仰者が判っておかなければならないことは、コツコツやる方が後で大きな結果を許されるのですよ、ということです。いくら派手にやったところで、実らないものは実らない。しかしコツコツ積み上げてゆくと、威力を発揮するものなのです。よく引き合いに出されるのが、藤沢修平の「さざ波剣法」です。
派手ではないけれども、地味に感ずることでもコツコツ積み重ねてゆくと、最初は弱々しく映るのだけれども、結果的には勝負に勝ってしまうということです。
家庭でも、相手を言い負かした方が気分が良いのだけれども、「ああそうねえ」とまずは相槌を打つ。負けたような感じになるのだけれども、段々手の平に乗せてゆく、そして何時しか操れるようになるのです。片方も‘まあそれでいいか’という気分で相手をするようになる。操っているようで、操られてしまっている、ような関係になるとうまくゆくのです。
また、コツコツと積み上げてくると顔に‘品’が出てきます。今月お配りした『神示の医学』にも、そのあたりのことが出てきます。そうしたことを念頭において毎日鏡を覗き込んでみてください。
継続してゆくと、「おたくは、最近違う感じがするんだけれども、何かやっているんですか」と尋ねられるようになります。あるいは相談事を持ちかけられるようになります。相手に応じて、浄霊の話や自然食品の話や日用品に含まれている化学物質の話等々を少し交えてお答えします。
お話しする時は、十しゃべりたいところを十しゃべってしまうと相手が疲れてしまいますので、二つか三つ位しゃべって、「後はまたの機会に・・・」と言って終わりにします。少しずつ相手に手渡しながら、理解できたら次の段階にゆく、というように進めていただきたいと思います。
日頃からコツコツと自分を磨きながら、人様にはそういった形で声を掛けたり、浄霊を勧めたりして、それらの集合体が大きな御神業ということになる、ということを心得ておいていただきたいと思います。そして、その先に、これから「入信教修要綱」だとか、「問題解決の手引書」を皆さん方の手元に提供してゆきますので、それらが届いたらス-ッと活用していただきたいと思います。
これから出されるものは、自画自賛的で恐縮しますがそれは素晴らしいものです。しかし、いくら良いものが届いても、自分の身が修まっていませんと、中々活用できません。
最高の欲求こそ信仰
そこで、もう一つ大切なことは、「困った時の神頼み式」の信仰から脱皮していただきたいということです。入信したての時は当然そうした信仰で結構なのですが、ひとたび神様の存在を認識することができたならば、順次『信仰の奥座敷』へと入っていただきたい、と願っております。
人間性心理学のマズロ-は人間の欲求ということを分析しております。初歩的な欲求は生理的欲求なのだ、というものですね。楽になりたい、快適に過ごしたい、というところから、安全を確保したい、居る場所を得たい、ということになり、自分を認めてもらいたい、ということになります。そして、一番上に「自己実現」の欲求がある、とするものです。
これは人間が形成する価値観の段階とも同様でして、快適価値、健康価値から出発して、生命価値へと上がり、最高位は文化価値、芸術価値になります。これは精神的に満たされてゆき、命よりも大切なものを見い出すということです。
そして実は、そうした価値の上に宗教的価値というものがあります。これは先ほどの「宗教について」ということと関連すれば、総合的な人間生活の在り様が判る、ということです。真理を得てゆく欲求とでも言えますが、この真理への欲求は最高最貴の神様に繋がらないと実現しないところがあります。
私達はそういうところを目指すのだ、ということを是非今日の慶き日に再認識していただきたいと思います。
現在はまだまだ浄霊をいただきつつ解決をしなくてはいけない段階の方も多いと思います。また、克服しなくてはならない課題を抱えておられる方もいらっしゃると思います。問題を解決しながら、健康を確保しながら次の段階を目指してゆくのだ、という認識が大切だということです。
高いレベルを目指すのが実は信仰なのだ、本来の信仰なのだ、ということです。そして、そういうことを理解した人がこうやって大祭に集まる。集まって、お互いにレベルの高まった顔を合わせて、高まったことに対して「おめでとうございます」という声を掛け合うのですね。
こうした積み重ねが大変意義深い祭典ということになってまいります。そしてまた、祭典でさらに御力をいただいて御神業に取り組ませていただくのです。