『起きたらまっさきに私に挨拶を』の項
≪本文≫
昭和二十五年ごろ、私はまだ「おひかり」をいただいておらず、ある会社に通っていましたが、土曜日から箱根へ行って、明主様(メシヤ様)の所へ一晩泊めていただくことがよくありました。
そして翌日、つい寝坊してしまい、洗顔もそこそこに出て行きますと、明主様(メシヤ様)はもう日光殿のご講話を終わられ、ブラブラと帰って行かれるところだったということが、何度もありました。
そういうとき、明主様(メシヤ様)は、『ねぼけまなこでもいい。起きたらまっさきに私に挨拶すればいい』とおっしゃいました。
いまとなっては全く恥ずかしい思い出ですが、明主様(メシヤ様)は一度もいやな顔をされませんでした。
あるとき、「若いのに寝坊して申しわけありません」とお詫びしましたら、明主様(メシヤ様)は、『なにを言ってるんだ。きみより私の方が若いよ。私の方が若いから早く起きるんだ。きみは年をとっているから寝坊するんだ』と笑って言われたことがありました。 (親族)
≪解説≫
この文章は、『特別扱いはいやだ』と『挨拶は何度でもよい』の項に挟まれる構成で編集されています。両項も併せて拝読すると、メシヤ様が挨拶についてどの様にご指示されたかを窺い知ることができます。側近者には側近者のように、信者には信者のように、未信者には未信者のように挨拶について説かれています。
そして、メシヤ様への挨拶が朝夕拝の原点なのです。
御前にメシヤ様がご鎮座されていると拝すれば、自ずと御神前の佇まいや自分の姿勢、祝詞の発声が整ってまいります。しかもそれは、信仰の深まりと共に変わってまいります。
例えば、御教えでは挨拶する場合の方向について述べられている項があります。『大抵の人は部屋へ入りお辞儀をする場合でもほとんど的外れである。壁へ向かってするもの、障子へ向うもの、庭へ向うもの等、実に千差万別である。』
メシヤ様は、そうしたことを絶えず注視されていましたので、私達も御神前の三宝の位置や向きというものに気を配ってゆかねばならないことになります。また、お花の位置もバランスよく置かれているのか、ということも大事になってきます。このように心掛ければ心掛けるほど、奥行きを伴ってまいります。
しかし、『ねぼけまなこでもいい。起きたらまっさきに私に挨拶すればいい』とおっしゃっています。メシヤ様はそれぞれの差を十二分に汲んでくださる、ということです。しかも『一度もいやな顔をされませんでした』とあります。
メシヤ様の御姿に求道心を掻き立てられます。
会話の原点
これは、さらには「挨拶が会話の原点である」という意味合いを再確認するべき、事例でもあります。
とかく家庭で会話が成り立たない、などという話題が多く聞かれますが、会話の原点は挨拶なのです。ですから、まず挨拶をする、ということを心掛けることが、家庭生活や職場、学校でも最重要課題なのです。例え忙しくて時間が取れなくとも、挨拶だけは交わしなさい、という実践徳目でもあります。
地域では、どなたとも挨拶を交わしているような場所では治安が維持される、とよく言われます。挨拶は大きな働きを持っているのです。
また、「街角では先に挨拶をした方が勝ちだ」とよく言われます。後で挨拶する場合は、一言添えなければならないからです。円滑な人間関係を築くために、そのように躾けられてきました。
その一面が、この文章にはユーモアたっぷりに綴られています。
言葉を練る
私達は挨拶というものを足掛かりに日常の言葉の使い方を考えさせられます。メシヤ様は『信者たるもの、常に魂を磨き、言葉を練り、上魂の人間たることを心掛けるべきである。』と、信者の課題を御教え下さっていますが、言葉を練る原点が挨拶であるのです。
その上に「嘘をつかない」という厳然たる姿勢が求められます。
そして『罵詈怒号のような声を聞いたり、愚痴や泣き言を聞かされたりすることが何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かれる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で、これが私の本性である』とも述べられています。
ご承知のように『私というもの』という御教えです。この最後には『私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大されることと思っている』とあります。日々の課題とさせていただいたならば、きっと地上天国への道は開かれてまいります。