他山の石として考えるべきこと
他山の石として考えておかなければならないことは、かつて世界救世教が公称80万人となった時点で、冒頭のような宿命的な現象が生じているということです。小規模ながらも同じような変遷を辿ってしまった、ということです。メシヤ様を教祖として仰ぐ教団の信者総数は500万人に達しようとしていますが、どの教団も、ともすると同じような道を歩んでしまいます。
また、一元化は内向きの理論になってしまった点が残念な結果を生んでしまいました。本来外向きであらねばならなかったのです。全御教えを公開することで世に問い、真の意味で布教=社会改革を進める体制づくりであるべきなのでした。
ところが、布教=社会改革という取り組みは言葉のみが先行し、具体的な救済のあり方の指導が存在しなかったのです。布教力は個から個への伝承で、組織的な教育システムは生れませんでした。
その原因は、先程も触れたように御教えの解釈が浅いこととが先ず挙げられます。人類史全体を見渡した上で、宗教と科学の変遷に主神様の御意図を求め、メシヤ様の御教えはどのような時代背景の下に出されたのか、という探求です。
「宗教とは何か」ということを解らぬ者が運営し、また、「宗教の時代的諸相」を知らぬ者が宗教を批判して自己満足に浸って、人々はそれに縋り付いてしまいます。悲しい現実です。
次に、解釈が浅いために「教条主義」に走ることで、それが信仰であると錯覚してしまうことです。『宗教と科学の一致』という御教えに照らして考える時に、科学が進歩すればするほど主神様の御意図をより明確に拝察することができるようになる、という解釈の欠如です。
メシヤ様の発せられたお言葉の随所に、科学の進歩に対する解説に合わせて、問い掛けがあります。また、ラジオのニュースや新聞に隈なく耳目を注がれていたご様子からも、御意図を拝察できます。
そのように考えてゆきますと、指導者側は全ご論文、全問答形式御教え、全詩歌集に目を通した上で「教・論・律」を確立しなくてはなりません。重複しますが、そのためには全ご論文、全問答形式御教え、全詩歌集を公開せねばなりません。
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