創唱宗教―それぞれの教祖の精神と苦悩
さて、創唱宗教の出現は『夜の時代』の到来と関連する、ということを各地でお話いたしました。その中で、最低限の良心を人類に留めさせるための役割ということで、全ての真理は明らかにされずに教祖となった旨を示しました。
これは、各教祖に多大な苦悩をもたらしたことと推察して余りありません。聖者であるがゆえに、真摯に、懸命に、ひたすらに取り組みつつも解決のない作業であった訳ですから。
世界宗教と分類される創唱宗教の内、最も古いものは、ご承知のように仏教です。お釈迦様が教祖となって仏教が生れました。そして約600年経った時にキリスト教ができているのです。そして更に約600年経ってイスラム教ということになります。非常に不思議な間隔ですが、私達宗教宗派を超えて地上天国建設の実現を考えてゆく時に、是非心に止めておいていただきたいのは、それぞれの教祖の精神とは何かいうことです。
それぞれの教祖が掲げたものと各宗教の成り立ちを見つめてみますと、お釈迦様の場合『人類の不幸の源は無知による』ということが胸に迫って来る内容です。何も知らない、ということが不幸を作り出しているということです。仏教の根底にはこれがあります。
それから約600年後にできたキリスト教。イエス・キリストの精神は『人間は強い存在』ということです。ですから自然を征服する、ということが出てくることになります。そういう思想が展開されます。歴史に最も現われた部分です。
それから更に約600年後にイスラム教ができます。マホメットの精神は『人間は弱い存在』というものです。
イスラム教については先に一度触れたことがあるので思い出していただきたいのですが、戒律に対する教祖の精神というものを見つめていただきたいと思います。例えば、女性の服装。目以外を覆い隠すのは、“男は弱い存在”ということに由来します。女性らしい魅力的なところを男性の目に晒(さら)すと、魅力に弱い男性が狂う可能性がある、という考え方です。
また、豚を食しない、という戒律には“人間は弱い生き物”という考え方があります。豚は雑食なので、弱い生き物である人間が食しては危険性がある、というものです。ラマダンも同じ考えですし、そこには優しい抜け道も用意されています。
このように素晴らしい考え方の下に構成されているにもかかわらず、原理主義になると異質になってしまいます。ジハードがテロに転用されると自爆ということが美化されてしまいます。因みに、第二次世界大戦での神道原理主義でも同様に「神風特攻隊」などどいう自爆を美化する行為が重ねられました。無責任なことです。
余談になりましたが、『無智』というものが教えられ、600年後に『強い存在』という考え方が出て、更に600年後に『弱い存在』というところから戒律を守る姿勢が出てきました。そうしたものの上に現代があるのです。そして、最終的にメシヤ様がご出現されて『それらでは不十分』とご指摘されたのです。そうしたことを認識していただきたいと思います。
それから私達はずーっと学習を重ねてきて、人間という存在の認識度が更に変ってきております。そういう時代の変遷の中で、私達はご縁をいただいているのだ、ということを、時代を見つめつつ自分達が宗教というものの中に身を置いているということを考えていただく機会にしていただきたいのです。