『信仰即生活』を自らのところまで降ろして
濵口さんが報告してくれた中に、自分がまず練習しておいて次の人の御世話ができるというお話がありました。昔から言われている「因縁の人が因縁の人を救う」ということですね。そして、この因縁の人が因縁の人を救う時に真心を込めて誠を込めてやればやるほど同時に進行していきますので、所謂(いわゆる)共時性ということを実感することが出来ます。ただし、誠が慣れになってくると今度は共時性ということが少しずれてきてしまいます。共時性ということが一貫して感じられるような生活をさせていただくことが重要です。
大切なことは、メシヤ様が我々に示されたのは『祈ったり参拝したりするだけが信仰じゃないのだ』ということです。信仰というのは生活なのだということですので、『信仰即生活』ということを、もっともっと我々の生活におろして行かなければいけないですね。その参考になることが景仰には載っております。例えばメシヤ様は、奉仕者にどこの部屋のどの箪笥の何番目の右の引き出しを引っ張るとその右手前に何が入っているから取ってこい、とそういう指示の仕方をされています。そこまで整理整頓をされていて、しかも頭の中に入っておられたのです。私達が遠く及ばない、そういう整理の仕方をされております。
それから、宗教の道に入られる前に小間物屋を始められた時には、朝一番先にお店の掃除から取り掛かられました。私もメシヤ教を始めた頃には、出張のない間はひたすら掃除ばかりやっていました。すると「掃除ばかりしてどげぇなるか」ということを言われた時期もあるのですけども(笑い)、しかし、それを積み重ねるしかメシヤ様の御足跡を辿る術がないのです。メシヤ様の実行されたことを一つ一つ取り組んでゆくしかない訳ですので、『信仰即生活』を今後さらに大切にしていただきたい、と願うばかりです。
今日をスタートとして新たに取り組ませていただく御論文『文明の創造』を仕上げてゆく作業というのは、実は主神様の御啓示に基づいた教えを纏(まと)めてゆく訳ですので、遥かに高い見地からの教えがどんどん出てきます。そうしますと私達はまた錯覚してきます。私達こそ偉いのだ、とか、特別な人間なのだ、とか、そういう認識になってしまうと生活がどうしても疎かになってしまいます。
先ほど、「おどろくことに神人合一の御神格のメシヤ様にあられても進歩向上に努めておられたのです。」という話を体験記の中でされていました。そういう気持ちを皆さんで持っていただいて、より進歩向上を目指してゆくような生活、その生活と同時進行でないとこの『文明の創造』という御論文を完成させるということにはならないのだ、ということを今日は腹に置いていただいて、どうぞ現場にお戻りいただきたいと思います。