御講話 ③観音様はすぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設される
ですから観音様の御都合により、そのときの仕事の上においてだれを使うか判らぬ。今後といえども観音様は必要があればだれでも使う。もし使われた人が、俺がこうであるから使われたとか、俺がどうだからと思うと間違いがある。観音様からこういうお見出しに与かるということは、一生涯の光栄で、それに対してはただ感謝よりほかなにもない。感謝してありがたい思えば後また使われる。少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使いにならぬ。この点はたいへん重大なことで、観音会がだんだん発展する上においても、観音様は非常にやらかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただバッと拡げない。世間ではよく形だけ見せるようにするが、こういうやり方は非常に観音様は嫌われる。場当たりのいい、ある一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のないこと、人間のように街いもなにもない。本当のお試しとは、自己というものをぜんぜん見ない。本当に世界人類を救わなければならぬというやむにやまれぬ状、またこの世の中の状態を見て、実に哀れだ、かわいそうだ、見てはおれぬ、しかし人間の力ではどうすることもできぬ、しかし観音様が観音力を揮われるにつき、その一部にも加えてもらって、そして力限りやらしてもらうというそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。
昭和10年8月11日 ご講和
【ご講和篇1 P91】