質問「『メシヤ様』と『明主様』の違いは?」
今回の特選集では、初めに3月度の全国巡回で多く寄せられた他教団信徒の方々からの質問や他教団信徒の合同勉強会で考えさせられた内容をまとめました。
まず、「現在ネット上で『メシヤと呼べぬ者は出て行け』という御言葉があったことや、御神格について学ぶことは多いのですが、実際上『メシヤ様』と『明主様』の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか?」という質問が多く寄せられました。
『メシヤ様』とお唱え申し上げて取り次ぐ浄霊による恩恵の素晴らしさや偉大さ、絶対性はこれまで幾度となく取り次ぎ、実証例は枚挙に暇(いとま)がない程ですので、十分な情報を得ている方々に“押さえ処”として次のようなことをお伝えしました。
それは、「お守り」を御揮毫に“なられたか”“なられなかったか”の違い、という表現もできるということでした。これが、『メシヤ降誕仮祝典』を執り行われた前後のことなのです。『明主様』時代は『お守り』を御揮毫になられて浄霊力を授けておられて、『メシヤ様』時代は御揮毫になられずに浄霊力を授けられた、ということなのです。勿論、形としては『御守り(後におひかり)』という形は残りました。メシヤ様が昭和29年4月19日に御浄化に入られて御揮毫になられなくなった際に理事会で印刷に踏み切ったことは、皆さん、ご承知の通りです。
印刷のことを後で御知りになったメシヤ様は二つの御言葉を垂れています。『それで良かった』という御言葉と、『本当は御守りはなくてもいいんだけどな』という御言葉です。この御言葉は御自身のことを弟子達がどのように認識しているかの分水嶺でもあります。つまり、『本当は』と仰った内容をどのように受け止めたかが重要で、仮に「『本当は』と仰っているが今は・・・」ということで御神意を汲まずに過ごしたならば、それは既に神権を侵(おか)していることになるのです。
このことに思いを馳せない者は、メシヤ様の弟子ということの前に宗教家としての資質が問われるのではないでしょうか。
しかも、この受け止め方が『メシヤ降誕仮祝典』となった理由だと拝察されます。『仮』を付けるか『本』を付けるかは、『メシヤと呼べぬ者は出て行け』という御言葉をどのように受け止めたかにも係っており、仮に面従腹背で聞いていたのならば、『本』を付けることがおできになる訳がありません。何故なら、神様は人間の肚の底の底を御照覧されているからです。
『本当は御守りはなくてもいいんだけどな』と仰っているにも拘らず、『本当』でないことを続けているのですから『本祝典』とはならないのです。多くの教団が体制や建設という型に焦点を当ててきました。それは、『御守り』という形に縋っているから仕方がない面でもあるのですが、しかし、『想念の時代』という御言葉からしても、メシヤ様という御存在への認識、想念に大きく関係しているのです。
こうした内容に多くの方々が得心された御様子で、次世代を担う志しが眼差しに光となって灯されていました。