御教え集6号 ②最後の審判 人類全部を助ける事ではない
正月早々お説教的なことは言いたくないですけれど・・・よく、邪神、邪神と言っていますが、邪神が一番目掛けているのは、信者なんです。それで、大きな問題ではないんですが、ときどき小さい問題が、教団の中にあるんです。ところが、信者さんの場合は、邪神にやられても、世間の人がやられるようなとは違う。世間の人は、本当に悪いことをするが、そうではない。信者さんが邪神にやられると、良いことと思っていることが、結果悪いんです。それを注意しなければならない。信者さんは、これが教団のためだと一生懸命やる。それが、実は反対の結果になるということがよくある。この間九州で起こった問題は、一軒の家で、そこの娘さんかなにかが病気で死んだんですが、それで、医者にかからなかったとかいう問題ですが、それはだれがそうしたかと言うと、そこの家の長男ですが、病人は二十いくつかの娘で、その兄貴ですね。地方の新聞に投書したらしい。いままでそういう問題を見ますと、必ず青年が問題を起こすんです。起こすんでなく、問題にするんですね。譬えてみれば、その家の親が死ぬとか、兄妹が死ぬとかする場合に、ふだんから・・・浄霊しているときから反対しているんです。そんなインチキ宗教で、病気を治すなんて怪しからんと言う。いま学校で教育を受けた者なら、そう考えるのもしようがないです。唯物教育によって、そういう思想になっているから、たまたま家のだれかが信仰で病気を治そうとすると、反対ではないが、憤激的になるんですね。そんなような具合ですから、病気も治り悪いんです。その想念が邪魔していますからね。ですからいつも言う通り、一家のうちで非常に反対する人があったら、触れないほうが良い・・・止めるんですね。その霊が邪魔するんです。だから結果が悪いんですね。すると、それ見たことか、俺が言った通りだ。じゃ問題にしてやろうということになる。法律的なことはないんですがね。地方新聞なんかに、よく出るようですが、そこで一家のうちに非常に反対する人がある場合・・・そういうのは見合わせる。病人は頼りますから、・・・なかなかそれを振りきる、というわけにはできない。そのところをうまくやるんですね。なるべく、そういうのは避けるという方針にしたほうが良いですね。問題の起るのは、みんなそうですね。それから、たまには妻君なり娘とか息子とかいう場合、本人がすがってくるから、やってやるようなものの、親父が反対する場合に死にでもすると、それを問題にしたがるんです。非常に面倒ですから、とにかく反対のある場合・・・一軒の家でね。注意してなるべく避けるという方針を取ったほうが良いですね。問題を起こすというのが一番おもしろくないんですからね。いくら一生懸命やっても、逆になりますからね。そういう場合に、大乗的に見れば良いですね。そういう病人に限って、おもしろくないです。病人がすがってくるから、なんとかして助けてやろうとするが、家の人が反対するので、なんとなく気持ち悪い。それで、引っ込みがつかなくなって、パッと死んじゃう。私なんかも昔あったんですがね。そういうのは避けるんです。薄情なようでも、パッと振りきるんです。それが、大局から言うと教団のためになる。それで、結果においてスラスラいって、有利ですね。ですから、いつも神様のことは算盤を取らなければならない、と言うのは、そういうわけです。どうしても、大乗は小悪を伴うんです。大愛でいっても、少しの悪はどうもやむを得ない。ですから、多く助けようと思って、利他愛でやったところで、少しは・・・ずいぶん、情けないと思うような人もありますが、大局から見て有利のほうをやっていくよりしかたがない。それでないと、かえって神様の御神意にかなわないことになる。だから、神様は人類全部を助けるとは言われない。助かる者と滅びる者とできると言うんです。それが最後の審判ですよ。最後の救いではないんです。審判というのは、やはり・・・罪人は罰せられるというわけなんです。ですから、そこの点が非常に難しいんです。
【御講話編6 p360】