御教え集31号 ①三千年の大芝居

昭和二九年 二月四日

とにかく今年から神様が表になったということは、たしかなのですからして、そこで救世教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。いままでは楽屋でいろいろ支度していたのが、いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。やっぱり芝居と同じですから、序幕です。これはお筆先にありますが、「今度は三千年世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」というのがあります。お筆先というのは実によく書いてあります。というのはずいぶん教団の邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ってきました。ところがそういう人に「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしています。それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。だから本当にご苦労様と礼を言いたいくらいです。これがちょうど、いま言った、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。

もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。そういうようで、神様がやられることは実に深いです。ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うてる事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命やっていることが、あんがい神様のお邪魔になっているというわけです。そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。また分かるものではないです。ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。なにしろ世界人類を救うというのですから、開闢以来ない大きな仕事なのです。お筆先に「大きな器には大きな影がさす。だから器が大きくなければ神の仕事はできんぞ」というのがあります。よほど大きな器で、要するに大局的に見るというわけです。

「大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である」ということはなにごとにもあります。

 

【御講話篇12 P176】

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