観音講座第二講座 ①道法礼節

 

道はあらゆるものゝ通るべき筋。日月が東より西へ行くにも軌道がある。一切は道により成り立ち進んで行く観音行である。道とは首に辶 首は元首、人民の頭、首斯の如くに辶をかけたのだ。非常に意味がある。

 

 

観音会は之を全世界に判らせる御用なのである。天地の法に外れねば総て旨く行くのである。天地の法律の事(造物主が造った法律)道法(観音の法律)、完全無欠の法の事である。法「水を去る」と言う字。火なり(ホホ)、水臭い水気があるとて水は正しくないのである。ヒはホにして炎、ホのホとなる。手も触れられざる厳として犯すべからざるもの(水は融通がきく。)

 

 

神は順序なり、共産主義は之を打破ろうとしている。軍隊も礼儀のある為に強いのである。礼儀は順序から出たもの礼儀なくば順序たたず。

礼は豊と示すと書く。余裕ある事、上流の金持が(富者)礼儀正しく貧者は正しからず、自ら階級あるのが本当である。礼儀あれば貧乏無くなるのである。親鸞には弟子一人もなく皆御同行なりと言うたが、日本共産主義の一番初めの人なり。其のくせ弟子に○○等と言うのがあったのである。

 

 

節なくば総て物は進行せず、春、夏、秋、冬も節なり。観音運動にも節がある。節を越えると進行する。一時的に止るのは節ですから止っても心配は不要である。音楽でも節がある為非常によく聞こえるのである。国家の戦争も節です。日本の日清、日露、欧州大戦、満州事変等が節で、この節の為日本はよくなった。節は勢を止める為一層強くなる。伸び放題にするのは悪い。止めると勢が強くなる。節を知らぬ者は途中でくたびれる。節がなければノッペラボーで弱いし折れる。

以上の如く、これから道法礼節を開示するのである。

なんでも道あり法則あるならば法の通りに座し法の通りに歩き行い寝るにも法あり。それによって順序立ち行く。又何んでも節に合せて行えば旨くいく。これを立派に行えば観音行の出来た立派な人となるのである。是を二千六百年前に釈迦が説かれたのである。

(昭和十年七月二十五日)

 

【著述篇1 P256】

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