観音力とは何ぞや
『光』二号、昭和二十四年三月二十日
昔から妙智力又は観音力というが勿論妙智力は観音力に包含されるものである。世に阿弥陀力とか、釈迦力、達磨力などいう言葉がなく、ただ観世音菩薩だけがその力を唱えたという事は不思議であると共に何等か理由がなくてはならない筈である。之に就て文献もなければ言伝えの如きものもない。私は以前から此事に就て疑問を抱いていたが、信仰が進むにつれて実にはっきり判る事になったので、それを解説してみよう。
それに就て今一つの疑問がある。之はよく聞かれるのであるが、観世音菩薩は男性であられるか女性であられるかという事であるが、此事は又観音力と密接不離の関係があって、実をいうと世尊は男であり女でありいわば両性を備え給うておられるのである。そうして男女は、男は陽女は陰であり、之も昔から誰も知っているが之を火水に分ければ男は火で女は水であり、火は経に燃え水は緯に流れる、此経緯が今迄は本当に結ばっていなかった。それが今度いよいよ結ばるという時が来たのである。という事は私の常に唱える夜の世界が昼の世界に転換する事で、即ち経緯十字形に結ぶ事になったのである。
又光とは火と水の密合であって、火素の量が多量である程光は高度を増すのである。
此理に由って昼の世界は火素の量が殖えるから光が強くなるのである。観世音菩薩の御働きが光明如来と現ぜられる所以である。
次に、最も重要なる点は、経緯を結合する事によって真の力が発生する。力という字は経の棒と緯の棒と結んで曲りその先端が撥ねる、之は結ぶ事によって左進右退的回転力が発生するという意味で、全く文字なるものの意義深きを思わしむるのである。以上の如く観世音菩薩に限り、経緯両性を具備さるるのは、経緯の結合によって力を生ずるのであるから、特に観音力という言葉が唱えらるる所以である。
序でに、今一つの重要事をかいてみよう。光明如来とならせ給うたその御働きの次は、弥勒の御活動をなされるのである。前述の如く、光は火と水であるが、之に土が加わる事によって火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、之に土が加わって初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、之が如意宝珠であり、麻邇の玉である。又火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである。彼の釈尊の予言にある五十六憶七千万年後、常楽世界ともいうべき五六七の世が始まるという事は、此五六七即ち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。
如何に釈尊が大予言者と雖も、実際の五十六憶七千万年後というが如き天文学的数字を予言し給う筈がない、それは何等の意味をもなさないからである。先ず予言の価値としては、精々数千年位が実際に即する訳である、キリストの二千年後の予言などは最も適切な年数であろう。観世音菩薩の五六七は応身弥勒の事で、応身弥勒である事は仏説の通りであるが、今後此応身弥勒の千変万化の御働きこそ、吾等刮目して見るべきものがあろう。そうして五六七の数も三六七も合計十八である、十は結びであり、八は開ける数である、観世音菩薩の御本体は一寸八分の黄金と昔から定っており、御堂は十八間四面と言う事なども、意義深きを思わしむるものがある。
【著述篇7 P34】