浄化作用を軽く済ませる方法
(中略)
しかしながら、自然浄化作用が発生するより以前に浄化作用が起る場合がある。その際は比較的曇が濃度に到らない為浄化作用が軽く済むのである。これはいかなる訳かというとある動機によって悔改めるという場合である。右の動機とは、宗教的説話や聖書のごときもの、又は先輩や名士の経験談や言説、偉人の伝記等によって精神的に覚醒する事である。この意味において人間の魂即ち良心を喚び覚すべきものとして、良き書籍及び講演、良き映画や演劇等の必要なる事は言を須たないのである。
右のごとく、人間が覚醒する場合、霊体にいかなる作用が起るかを説いてみよう。本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になっているのである。そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。即ち、魂本来は日月玉のごとき光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。故に、明鏡止水のごとき心境にあれば、魂は晴天の日月のごとく輝くのである。
右のごとく人間が覚醒するという事は、睡眠状態であった魂が、豁然(かつぜん)として輝き出す事である。その手段として今日までは、右に説いたごとく、説話や読書等の道徳的手段があるのみで、それによってまず魂が覚醒し輝き出すから心の曇が解消し、次で霊体が浄化さるるという順序である。右によってみるも、魂・心・霊の三者は、常に明暗の状態が平均しているのである。
しかるに、私は腎臓医術の項目において、百万語のお説教よりも、腎臓を健全にする方が効果があると言ったが、それはいかなる訳かというと、前述のごとき道徳的手段を要しない事であるばかりか、道徳的手段においては、百パーセントの効果は期し難いが、本療法によれば百パーセントの効果があるのである。それは前述のごとき道徳的手段においては、まず魂を覚醒させ、次に心及び霊体が浄化さるるのであるが、本療法においてはこの反対であって、外部からの施術によってまず霊体が浄化され、それによって心の曇が解消し、否が応でも魂は覚醒する事になるのである。又、道徳的手段によって魂や心が覚醒する場合、本人自身は克己的苦痛が伴うと共に、それが霊体に及ぼし、病気その他の苦しみを受けなければならないが、本療法は、疾患が治癒しながら知らず識らずの裡(うち)に魂が覚醒するのであるから、理想的心身改造法というべきである。
右のごとく、霊的浄化を発生さすその根源としての機能が腎臓であるから、腎臓の活動を促進さす事こそ、心身改造の根本である訳で彼の神道における祓戸四柱(はらいどよはしら)の神の活動が、人体においては腎臓に相応すると想うのである。さきに説いたごとく心臓は日であり、肺臓は月であり、胃は土であり、天地間の汚濁を清める神が祓戸の神であるとすれば、腎臓は左右及び副腎と合せて四つあり、祓戸の神も四柱あるにみて、意味がないとはいえないであろう。
【罪穢と病気より 著述篇4 P447】
『明日の医術 第三編』昭和18(1943)年10月23日発行