慰霊について

私達の身辺に起きる色々な事象は先祖と関係しているという見方も加味しておいて頂きたいと思います.余り捕らわれ過ぎても、「うまくいかないのは全て先祖のせいだ」という責任転嫁になってもいけませんから・・・。しかし、先祖と言っても、自分も先祖の生まれ変わりですから全て自分の責任なのです。どうも理屈っぽいですね。まあ身辺の事象にはそのことを加味して判断してください。

例えば、現在私達は平和を享受していますが、50年前は違っていました。更にそれより100年前はもっと違ってました。私の祖父など「あそこで何年前にこういう人が切り殺された」と言うような話をしていました。だから自分だって前世で人を切っているかもしれないし、切られているかもしれない訳です.また私の家は庄屋でしたが、1升枡が二種類ありました。大きい方で小作から集め、小さい方で醵出していたのでしょうね.大変な罪です。どこで人を騙していたか解りませんよ.はたまた人を路頭に迷わせていたかも知れません.それから住んでいる土地ですね.「ここは私の土地だ」と威張ったって、高々100年くらいのものです。極端な話、45億年前は誰のものでも在りません。ですから、例え自分の力で家を建てるとしても、その土地を使わせて頂くという気持ちが大切です.地鎮祭などはそうした心の上に成り立たねばなりません。そして土地には長年月の間に数々の人が関わっていますので、様々な思い、執着心なども存在します.曰くのある土地では、塚を建てたり、石碑を建てたりして、先人に敬意を払わねばなりません。勿論、私達のご先祖の慰霊祭は人任せにせず真心をもって執り行ってください.その為にも、この機会に位牌等を整えていく事も大切です。

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日本の仏教は仏教ではありませんよ。強いて言えば儒教の形式の方が強いですね。例えば位牌。あれは仏教ではありませんよ。黒塗りに金泥の文字は儒教です。それでは何故日本に位牌が定着したのかと言いますと、元々同じ形式のものがあったからです。神道の白木の札ですね。神道では、成人男子が亡くなると「〇〇〇〇毘古之神霊」とそれに謹書します。それと似ていますからね。また、「南無阿弥陀仏」と唱える人で、その意味を解って唱えている人は幾人いるのでしょう。「南無」とは「帰依する」という意味ですね。阿弥陀仏に帰依します、と言っていると自覚して唱えているのでしょうか。違う方が多いと思います。ですから、お葬式でご遺体に向かって「南無阿弥陀仏」と唱える時の心はどうなのですか。きちんと教えていますか。真理を説くと言いながらも、基本的なことも教導していないのが現状です。新興宗教の方がマシですよ。

マシとは言ったものの、真に人々を善導しているかと言うと、あまりそうとは言い切れませんね。例えば、霊障についての相談をしたが、「こういう人が浮かばれないで頼ってきているので、供養しなさい」と言われ、取り組んでも変化がないと、「誠が足りない」と責められる。供養料ばかりが嵩むという話ですね。これは宗教ではありませんで、霊感商法の類です。もし霊障の相手が判ったらどうすべきかですね。宗教家ならば、霊に対して諭してやらねばなりません。霊界の修行は何と言っても「我と執着」を取ることですから、何時までも恨んでいたり、心配していたら執着が取れないので、結局何時まで経っても救われないことになります。私は「救霊」を心掛けていくことが宗教の使命の一つだと思います。それから「慰霊祭」というのも人任せにせぬ方が良いですね。それぞれの宗教で、慰霊祭の斎行方法を知り得たならば、自分の霊性を高めつつ真心を込めて自分で取り組んでいく事も大切です。

私は、宗派にとらわれませんので、現在の信仰を続けていても「浄霊力」を授けますよ、と言ってます。それは、それぞれ各宗派によって尊称は違っても最高神を求めていることには違いがない訳で、その最高神が『誰にでも「浄霊力」を授ける』と仰っているのですから、その恩恵を取り次ごうとしているのです。言わば、宗教のボ-ダレス化ですね。その延長線上には民族紛争消滅の願いもあります。民族紛争などという悲劇を滅していかねば、宗教の意味が見出せなくなります。

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死後の不安

― 先月、死後『四十九日』の間の取り組みが大切、というお話を伺いました。私は所謂独居老人ですので、お寺に永代供養を頼んでいますが、『四十九日』のことが心配です。「メシヤの教えでは『(死後)極善のものは直ちに天国に昇り、極悪のものは直に地獄に落ちるのである。』とありますので、準備をしておけば大丈夫ですよ。極善の人になれば、四十九日を待たずとも瞬時に天国に行けるのです。

霊界生活については、『抑々(そもそも)人間は、現世において人類社会の為与えられたる天職使命を完全に遂行すべきであるにかかわらず、そのほとんどは事物の外郭のみを見、不知不識(しらずしらず)の内に悪に属する行為を重ねるため、それが罪穢れとなって霊体に曇りが堆積する。したがって死後霊界人となるや、その罪穢れの払拭が厳密に行われるのである。』とあります。

ここで大切なことは、天職使命を全うするということと物の本質を見るということ、罪穢れを堆積させないということです。

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お彼岸の慰霊祭

「よき風習や伝統を守るということに、重要な意味が出てくると思います。もうすぐ3月です。お彼岸を迎えますね。3月の家庭慰霊祭は21日に行ってください。それぞれの土地、家風に沿って誠を持って祭行していただけば結構です。

そして、お彼岸と共に桜前線が北上します。よい季節を迎えます。このような時にこそ、『天国的生活』という教えを自分のものとして魂に定着させてください。草花の芽吹きを眼にした時、小川のせせらぎや鳥のさえずりを耳にした時、‘神様が私を慰めてくださっている’と感じてみてください。きっと、豊かな心になりますよ。」

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お盆の慰霊祭について

 先祖の慰霊については善言讃詞を奏上するとよいと伺ったのですが、先祖の救いになるのでしょうか?

「理解しやすいように、私の若い時の体験をお話いたしましょう。原因不明の頭痛に苦しむ人が四国にいまして、色々と事情を聞く内に墓が関係していることが解りました。家の裏の小道に一つの石があって、それがどうも先祖の墓石らしいのです。人一人通れるような小道にポツンと石がありまして、それをよく皆踏んで歩くらしいのです。

自然石を使った古い墓です。‘これはいけない’と気付いて‘何とかしよう’ということになり、更に調べてみると、400年以前の墓をはじめ40を越す墓が一帯にありました。それで全ての墓上げをして、先祖代々の墓を建てることになりました。私は初めてのことでしたので、メシヤの教えに則って誠を尽くして斎行するしかないと意を決しました。

メシヤの教えでは、土葬の場合、埋葬後100年までは全て堀り上げ、100年以上は墓石から30センチほど下の土を掘り上げ納めるということです。因みに、いざ作業を進めると、100年未満の墓では遺骨が必ずあるが、100年以上では遺骨を見つけることができませんでしたね。

墓上げ作業を終え、建墓式を執り行いました。善言讃詞を奏上致しました折り、それまで暗い曇り空だったのですが明るい日が差し込んで、‘先祖の喜び’が伝わってきた想いが致しました。

ところが、その人の奥さんは不安だったようで、翌日熟練の霊媒師を呼んで‘本当に墓の先祖が上がっているかどうか’を調べてもらったようです。私が余りにも若かったからでしょう。後に告白されましたが、『こんな見事な墓上げは珍しい。全て喜んで上がっている』と太鼓判を押された、と言ってました。何か変な気持でしたね。

メシヤの教え、それから善言讃詞というものは、それ程偉大な救いの力があるのですね。お盆も近づいてきますので、慰霊祭などでは善言讃詞を心こめて奏上すると良いですね。」

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