人間について

心に置いておかないといけないことは、‘人間は食べるために働くのではなく、働くために食べるのである’ということです。その前提がないと、使命が見えてきません。それから近年脳の研究が進んできまして、思考のメカニズムのようなことが解りつつあります。確かに人間は脳で考えていますが、正確には脳を使って考えています。魂が脳を使っていると言っても良いでしょう。この視点がないと、生き変わり死に変わりと言う事が実感できません。生き変わり死に変わりしながら、自分は特性を磨いてきたのですから・・・。そうしたことが総合的に見えてきた時に『因縁使命』の自覚に繋がるのですね。

現代は、残念ながら経済至上主義の影響を受けて人は育ちますから、中々見えにくいですね.まずは、日々影響を受けているという自覚を忘れない事が大切ですね。当然マスコミの影響も受けていますし、マヤカシの政治(笑い)、履き違えた民主主義の影響も受けています。変化する環境の影響も受けています。そんな中で賢者になるということは大変な事ですね。大変だからこそ、どうかメシヤの教えを生活に取り入れて、生活の中で活かしていってください。

********************************************************************

私達は、大きくは地上天国建設のために祈りと誠の奉仕を捧げております。「浄霊力の伝授」活動と「メシヤの教えを宣べ伝える」活動を進める一員として、御神業に臨ませていただいております。

そして個人としては、より良い生活を送ることができるように、日々いろいろな課題に取り組み、一歩一歩向上を目指しております。

無病息災愉快に働ける

私達の役割と御守護いただくあり方は、御教え『人間とは』で明確に述べられています。家庭慰霊祭の式次第の中で拝読させていただく教えです。

『本来、人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。

そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特徴を持たせ、生き変わり、死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。』

『不滅の真理である』ということを自らの心に留めておくということを礎(いしずえ)として、日々生活させていただくことが大切です。そして自己形成はもちろんのこと、子育てする時や人材育成に取り組む場合でも絶えず念頭にこの教えがあることが重要です。授かった特徴を見い出し育てていくことを忘れてはいけません。

そうした見地に立って、自らをより向上させるあり方を模索していく時に方向性を見い出すことのできる御教えが『神格をいただく道』です。朝拝時に拝読していただいている教えです。

課題となる項目を挙げてまいりましょう

・如何(いか)なる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し

・常に天空海闊的心境に在って

・日常の言動は融通無碍

・時所位に応じて何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである

・規律を尊び

・怠惰を嫌い

・万人を愛し

・人に接しては春秋の気候の快適の如く

・何事にも極端に走らず

・人に好感を与える事を之(これ)努め

・親切謙譲を旨とし

・他人の幸福を念願し

・人事を尽くして、神意に任せる態(てい)の信念を以って進むべきである

以上13くらいある項目のどの辺りまで自分に備わっていて、どれが課題となるのか、と沈思黙考してみてください。自ずと今年取り組む課題が浮かび上がってくるのではないでしょうか。‘全部課題だ’という方もあるかもしれませんが、一つずつ毎年取り組んでいってはいかがでしょうか。

13年かかりますが、次の申年には相当な人格形成がなされていることでしょう。これは大変楽しみなことです。そして取り組みについては、次のように教えられています。

真の幸福者

『人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、斯(かく)の如き人間こそ生甲斐ある真の幸福者と言うべきである』

一歩一歩理想に近づく努力を重ねる者が、神様から見て‘幸福者’であるということです。そして、そうした人々が集うところを『地上天国である』と教えられているのです。

また、こうした努力を積み重ねていくと、神意を拝することができるようになり、やがて安心立命の生活へと近づくことができます。夕拝ごとに噛み締めていただきたいと思います。

・常に安心の境地にあり

・生活を楽しみ

・歓喜に浸る

・花鳥風月も、百鳥の声も、山水の美も、悉(みな)神が自分を慰(なぐさ)めて下さるものであるように思われ

・衣食住も深き恵みと感謝され

・人間は固(もと)より鳥獣虫魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる

このような境地へ、是非近づかせていただきたいと願います。朝拝、夕拝の時間に拝読をお願いしているのは、そうした願いがあるからなのです。

コメントを残す