犬の話
その地域の奥地に住む人の家で、位牌を整理する話が持ち上がり、新たに設える位牌の遷霊式を執り行うことになりました。司会が「ただ今から遷霊式を執り行わせていただきます」と発し、私が祭事を始めますと、その家で飼育されている数頭の猟犬が急に吠え始めました。そして善言讃詞を奏上する頃にはピ-クに達し、「以上をもちまして終わらせていただきます」と司会が言うと、ス-ッと吠えなくなったのです。
「不思議なことがあるものだ」と参列者達が語り始め、私はふと子供の頃の事を想い出しました。昭和30年代、私の家で仏壇に善言讃詞を奏上し始めた頃、集落のあちこちから下駄の音が近づいて来て濡れ縁のところでカタッと脱ぐ音がして、見ても誰もいないのですが音だけはする訳です。母や祖母は怖くて背筋がゾクゾクしたそうです。当時の教会長は、「集落の先祖達が救いを求め善言讃詞を拝聴しに来たのだ」と解説してくれました。
それと同じで、人の目には映らなくとも、善言讃詞を拝聴するために来たその集落の先祖達の気配を犬が感じて吠えたのです。その話をしたところ参列者は納得して、さらに信仰を深めました。また私への信頼も強くなりました。
先ほどの祖霊祭祀の根本も本来ここにあるのです。絶対的救済力の言霊である善言讃詞を、神様から力をいただいて奏上する祭事が家庭慰霊祭です。真心を込めることを表現する一つに、自分達でお供え物を準備するということがあります。準備に誠を込めれば込めるほど時間がかかります。面倒臭がる人がいる中で、滞りなくできるようにお世話することは大変な手間がかかります。
そこへ行くと、五千円という祭祀料を納めれば本部で慰霊祭をしてくれる、というお世話は楽です。また、教団にとっては、上手に恐怖心を煽っていけば申し込みは継続されます。財務的に安泰なのです。
教団改革が開始された時に、祖霊祭祀を廃止する議論が机上に上がったのですが、結局運営上(事業計画上の収支)の問題で有耶無耶になりました。
情け無さでいっぱいになりました。私はやがて、‘どうしても本来のあり方を実現せねば’と思わされました。