大阪府太子町 叡福寺
メシヤ教会の自然農園ナチュファの近くには聖徳太子の御廟がある叡福寺がございます。
御本尊は如意輪観音
聖徳太子建立三太子の一つで、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」、大聖勝軍寺(八尾市)の「下の太子」に対して、「上の太子」と呼ばれている。また、大阪みどりの百選に選定されている(Wikipedia)
聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟(しながびょう)は、大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっています。周囲は結界石で二重(観音の梵字)(浄土三部経)に取り囲まれています。
叡福寺は石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。神亀元年(724)には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わります。
推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになりました。その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えました。
天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失いましたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されました。
現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることはなく、毎月11日に太子御影供法要が営まれ、毎年4月11日、12日には大乗会式が盛大にとりおこなわれます。
太子廟を中心として周辺には敏達、用明、推古、孝徳天皇陵や小野妹子、大津皇子、源氏三代墓などがあります。
毎年4月11日、12日は、当寺開創聖武天皇さまより千三百年の法灯をつぐ、太子会式の日だそうです。
(叡福寺HPより)
「この地に太子廟が築かれた経緯について」
聖徳太子は諸国から献上させた良馬の中に四脚が白い「黒駒」を発見し、自らの馬としますが黒駒は聖徳太子を乗せると天高く飛び上がり、全国を巡回し3日で都まで帰ってきたそうです。
聖徳太子が黒駒で富士山へ登った時、遥か河内方面に五色に輝く光を発見。そここそ自分の墓を作る場所と考え、河内の国へやってきます。河内で輝く場所を探していると、太子町にある「五字ケ峯」と言う山が富士山から見えた場所だと判明。そこで聖徳太子は「五字ケ峯」のふもとを自らの墓と定め、叡福寺北古墳を築造したと言われています。
「太子廟の七不思議伝説」
- 樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
- 鳥が巣を造らない。
- 大雨が降っても御廟の土が崩れない。
- 御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
- メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後の天喜2年(1054年)に発見された。
- 御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
- 寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。