創唱宗教も主神様の許可の下に発生する
主神様の御神体をお許しいただいて、主神様という御存在に対する概念が私達の中で明確になっていかない限り、この『医学革命』と『宗教改革』というのもまた進めることができません。
何故なら私に結石ができるということは、一つは残留する薬毒というものと、どうしても守秘義務を厳守し続けて行かないといけない、という精神的には非常に大変なところがある訳です。思っていることを適当に言って回っていればこんなふうなことはないのですが・・・、あるいは人の批判を「あの人はなってないなあ」とか言って回っていればこんな楽なことはないのですけども・・・一切口外しないということを守っているために中々大変なところがあるのですけども、そういうものを進めて行く時に一つは御神業の中では、我々のいただいている力というのは絶対的な力がありまして、メシヤ様の説かれた真理の教えがありますので、他教・・・仏教を見てもキリスト教の世界を見てもイスラム教の世界を見ても様々な宗教を見た時に、批判的な思いはどんどん浮かんできます。御教えに照らして考えてくと・・・しかし、“いずれの創唱宗教も主神様が許可して創唱させている”という概念に立って見れば、本日菅谷さんが拝読してくださった御教えの『神は其(その)時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕(あら)はし給(たま)い、それぞれの使命を遂行(すいこう)させ給(たま)うのである。』という観点に立てるのは主神様という御存在を認識するからこそであります。
そうしますと、対立軸は生まれてこずに「それぞれに役割があって今日を迎えている」と言うことができますので、主神様に向かう姿勢がより高まっていかない限りこの御神業を進めることができないということが一つあります。
そして、それを高めるために・・・「祈りの栞」の中の『天津祝詞』は「天津祝詞奏上」と言います。神事の時の「天津祝詞奏上」とか、「善言讃詞奏上」と言った場合には、この祝詞を見ながら声を上げていかない限り奏上にはならない訳です。
昔のように覚えて「高天原に神留り坐す・・・」と言うのは奏上にはならないのです。「奏上」と言った場合には祝詞の文言を見ながら上げていかなければいけない、そういう尊いものであるという認識がなく、過去の教団の中には段々早く奏上する教団もありますし、ゆっくり奏上する教団もありますが、祝詞を奏上するという姿勢自体を教えきれていないところがあります。祝詞を奏上するというのは、この祝詞の一文字一文字の字をズーッと見ながら上げていくのが神事に携わる者としての心がけとしてはあります。
次に御神名のところに「奉誦」と書いてあります。奉誦というのは・・・「祈りの栞」あるいは「奏上詞」の紙を見ないで上げることを奉誦と言います。奉誦とは諳(そら)んじて声を奉ることです。この時には奏上詞を見ないのが作法になってきます。
「祈りの栞」を信者さんに各教団渡しておりますけども、奏上の意味と奉誦の意味すらきちんと指導してこなかったことがあります。そのことが実は神様に真向かう姿勢を崩していった原因の一つでもあります。メシヤ教は最初からできていたということではありませんが、都度都度お導きをいただきながら、こうして段々段々神様に真向かう姿勢が許されてきたことを大変ありがたく思います。