平城宮跡を訪ねて
「宗教の役割」というものを考える上で、たとえば、奈良時代というものを見つめてみましょう。今、平城宮跡で、「大極殿」復元工事が進められております。遷都1300年に当たる2010年完成予定だそうですが、その他の整備も進んでいます。東西・南北が約一キロの方形である平城宮めぐりは1日仕事になります。以前お話した法華寺の隣接地ですので、合わせてご覧になると良いと思います。
世界文化遺産・特別史跡となってから、解説ボランティアも一層充実しています。
さて、奈良時代は藤原京から平城京へ遷都されてから始まりましたが、藤原京は日本で初めて計画的に街路と街区を配置した本格的な都市でありました。平城京はその4倍もの規模となっている、と言われています。統治と外交の権威を形成するために苦心した、とも言われております。
「平城宮跡資料館図録(奈良文化財研究所発行)」によりますと、「奈良時代は、中国にならった法律制度にもとづく国のしくみが整った時代である。それにふさわしい日本の都として、都市計画にもとづいた大規模な都市、平城京を建設したのである」とあります。
この「中国にならった」というところが妙味のあるところです。朝鮮半島から素盞鳴尊が押し寄せることにより、絶対平和主義の伊都能売神皇はインドへ落ち伸びられることになり、釈迦へ仏教の教えを垂れます。
その後、素盞鳴尊のずさんな統治の虚を突いて、中国大陸から押し寄せた神武天皇が制覇し、2665年前に即位します。因みに、それ以来、漢字を古代文字に当てはめる作業を重ね、現在のような漢字と平仮名、カタカナを使用して表記する文化も形成されてゆきました。
この時代の税は、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)など、銭貨や品物でおさめるものと、雑揺(ぞうよう)・兵役など、働いて納めるものとがあったようですが、税の荷札などの木簡も多数出土しております。木簡の種類の多さには興味が耐えませんし、貨幣もこの時代に初めて造られております。
国分寺が全国に建立されて果たされたもの
そして、平城京には、国の繁栄と安定を願って建設された大寺院が林立しており、仏教文化が花開きつつあったことが偲ばれます。また、この時代、日本全土に国分寺が造られ始めます。不思議にも、中国大陸の覇者が日本の国のかたちを作り上げ、大和民族の宗家によって創唱された仏教が精神面を支えることになったのです。
国分寺は仏教を全国へ浸透させるという狙いがありますが、それぞれの寺を往来する僧によって都の文化が地方に伝えられました。「今、都ではこんな歌がはやっている」とか、「今、都ではこんな着物が盛んに着られている」というように伝えられたのですね。
一方、地方の様子も都に伝えられました。僧という者は、特定の階級を超えて幅広く伝道してゆきますので、そうしたことを自然に担ったのです。現代では想像だにできないようにゆったりと時間を掛けて事が進んでいたのですね。
これが実は、宗教の大切な役割だったのです。仏教による人心の救済に加えて、地方の人々も都の文化の香りを共に吸うことができたのです。当然、僧は仏教の教えに精通するだけではなくて、歌がうまくなければなりませんし、絵も上手に描けねばなりません。そうでなければ、「伝える」という役割を果たすことができませんでした。
平家の落人に見るご神意には奥の奥がある
こうした歴史の背景には、奥深いご神意というものがあります。前述の公家の時代から次の武家の時代へ推移する過程は、NHKの大河ドラマ「義経」で垣間見ることができます。その時期、平家の落人が日本各地に身を潜めました。
実はこの落人の分布によって、都の文化が地方に根付いてゆきました。これは『神の壮大な文化の普遍化の仕組だった』と教えられております。『神のご意図は、奥の奥のまたその奥におありになる』という御教えが胸に迫ってまいります。
また、落人の身を潜めての移動は山の尾根伝いが一般的でした。そのため、落ち着く場所が定まると、上級者が尾根に近いところへ居を構え、下級の者ほど谷間の低い所へ下りて住んでゆきました。
ところが、時代が移り現代のように国道が平地に開通し、山間部でも川沿いなどに開通してゆくと、低いところの方が便利になり、山の尾根の方は不便になりました。まったく逆の環境になってしまいました。長いスパンでの平等をここに見ることができます。
時代の変遷に伴う「宗教の役割」の変化
歴史というものを長いスパンで見つめると、このようにご神意というものを拝察することができます。
先ほどの宗教の役割というものも、時代の変遷によって現代では多きく変化しております。「文化の伝達」という役割は、高速情報社会となった現代では必要性を失ったも同然です。今は「情報の吟味」ということにシフトしていると言えます。