表記について
おめでとうございます。皆様と共に「伊都能売観音」様入仏記念式典を執り行なうことを許され、心から感謝申し上げます。
私は、「伊都能売観音」様をご描画された岡田茂吉という御方を教祖と仰ぎ、「メシヤ様」と尊称申し上げて日々御力をいただいている楳木和麿と申します。
これまで毎年式典を執り行なわせていただいてまいりましたが、神界のお導きによりまして、本日は宗教宗派を超えて大勢の方々にご参列いただき、重ねて心から感謝申し上げます。
さて、初めてお目にかかる方もいらっしゃいますので、まず観音様の謂れに触れておきたいと思います。ただ今は、「伊都能売観音」様とお呼び申し上げましたが、ここの木札には「日之出観音」と表記されています。「違うではないか」と思われて当然であります。
ところが「御遺作集」で調べると、「伊都能売観音」様なのです。それではどうしてこうした違いが生じたのか、それが本日のテ-マの一つです。
「大日本観音会」発会七日目の申し込み
このお堂を造られた地崎宇三郎氏は、当時これから先の峠の道路工事を進めていましたが、厳しい自然の前に犠牲者が続出し、心を痛めておられました。そんな折に「大日本観音会」発会を聞きつけ、観音様を申し込まれたのです。その日は、発会して七日目であったとされております。
発会したときの御神体が「日之出観音」様であったので氏がそのように思い込まれたのか、観音堂改築時の関係でこのようなことになったのか、それは不明です。しかし、話の主眼は違いの指摘ではなく、何故「伊都能売観音」様を揮毫し下付したのか、ということです。
当時観音会へ入会するには七回講習を受けなければなりませんでした。現在その内容は「観音講座」として残っております。『主神の御目的と天地経綸の真相』に始まり、歴史観、世界観、人間観等を網羅する真理の教えです。私共の活動の原典でもあります。
それ故、宗教団体の御神体である「日之出観音」様を下付するためには、手順として講習を受けてもらい入会してもらわなければならなかったのです。
当時の状況からはその手順を踏むことはできず、しかし地崎氏の願いを叶えたい、しかもお堂で礼拝する方々のこともあるので「伊都能売観音」様とされたのだと拝察されます。現在本教でご下付させていただいている「ご腹帯」にも本日の御神名を詠み込まれた御歌が揮毫されています。普遍的にご下付させていただくからです。
「ご腹帯」で思い出されますが、地崎氏が観音会を訪ね観音様を申し込まれたのが昭和十年一月七日で、ご下付されたのが同十月十七日です。ちょうど「十月十日」なのです。まことに不思議な数字で、お目出度い日数です。そして東京から北海道までお供されて、同二十六日に御鎮座いただいたわけです。