宗教とは何かを理解する
これからもより一層御神業を進めてゆく上において、皆様方に是非もう一度肚に入れておいていただきたいことがあります。
それは宗教に関する認識です。宗教界では一番話題になったオウム真理教の問題を整理しておかなくてはなりません。教祖という人はチベット密教を修めて悟りを開いたと言ってます。しかしそれに続く人達が同じ悟りを開きたいために薬物に手を出し、ヘッドギアというモノを使って悟りを開こうとしたところに狂いが生じて、ああいう大事件を起こすことに繋がった訳です。
この狂いが何故生じるかというと、宗教というのは目に見えないものを相手にして、目に見えないものを中心に動いてゆくのですけれども、そこに“モノ”を取り入れてしまうと狂いが生じてくるです。ですから、日本の場合は、まだオウム真理教の問題に対して学者も整理をつけないで今日を迎えているために、本来の宗教観というものが日本人全体にキチンと整理された形で浸透しておりません。
先月も各地で触れましたように、古代の生活そのものが宗教なのです。神律あるいは自然の摂理というものを重んじて生活していた、その人間生活こそが宗教なんだということです。この認識を持っていただかないと、宗教と言うと特定の宗教団体というように勘違いをしてしまいます。人間生活そのものが本来宗教なのです。
しかし、本来の人間生活が営まれていないために、諸問題が生じているのです。ですから、私達がこのメシヤ教を通して進んでゆこうとしているのは、宗教団体という組織として進んでゆこうとしているのではなく、人間生活そのものを本来の在り方に導き、より充実した人生を歩むために信仰を培っているんだという認識です。
それを踏まえて私達の信仰生活は何かというと、これは教祖であるメシヤ様の追体験を日常生活で行うということです。追体験をするということは一体どういうことかと言うと、多くの方々はメシヤ様の偉大さを全面的に知らされております。だからメシヤ様という御方は「神様だ」と、そして「この終末期に救世主としてご出現された御方だ」と教えられてきました。それは、そのものなのですけれども、神様というところに力点を置き過ぎると我々の信仰生活というものがメシヤ様の追体験になってゆきません。
メシヤ様という御方は最初画家になりたかったが、眼病を患ったために画家を断念しました。画家がダメなら蒔絵師になろうと修行をされている時に人差指の筋をお切りになります。ですから御写真を見ると人差し指が反っていますね。
そこで芸術品を扱う小間物屋を始められて、大成功を収められます。成功を収められた才能に目がゆきますが、メシヤ様が一番実践されたことは朝一番先に起きて掃除をするということだったのです。何事においても自らの持ち場を掃除し、整理整頓してゆく、というご姿勢がメシヤ様にはおありになったということを改めて私達は持っておかないと、浄霊の奇蹟をいただけばいただく程私達の信仰はぶれてしまいます。
日々メシヤ様は何を心掛けていたかということを忘れていると、奇蹟をいただく程に人間が横柄になります。だから「威張るナ 怒るナ 早まるナ」という『るナ三訓』をメシヤ様は与えてくださっている訳です。
更には、メシヤ様は御在世中40万人くらいまで信者が膨らんで偉大なる教祖として仰がれた時にでも、夜2時に御神業例えば口述筆記を終えられた時に、口述筆記の担当者には後片付けをさせずに部屋を退かせています。後片付けは御自分でなさっておられます。
ここが他の教祖と全く違うところなのです。全部準備が整ったところへサッサッサーと出て来て、何か喋って「後は頼むよ」とサッと退かれるような教祖ではないということなのです。口述筆記を終わった時に「御片付けしましょうか」と言った担当者に、メシヤ様は『お前は口述筆記の担当だからそれだけをやっていれば良いのだ。部屋の片付けは私がする』と仰って、全て御自分で片付けて就寝されております。
ここが偉大なる神様であると共に、“人間として日々絶えず心掛けておられる素晴らしいお姿がそこにあるのだ”ということを私達がしっかりと捉えておかないと、自分の信仰がずれてゆきます。
ですから、メシヤ様を教祖として仰でいる信仰者というのは、「メシヤ様が御在世中の、言わば“生きざま”というものを追体験する」という生活を積み重ねてゆく生活者のことなんだということです。つまり、朝起きた時に男であろうが女であろうが真っ先に掃除から始めないといけないということになってくる訳です。
そういうことを今日は心に置いていただいて「信仰生活というのはメシヤ様の追体験をすることなのだ」と、そういうところからもう一回自分の生活を見つめ直していただきたいと願います。そして、メシヤ様の御精神を現代に求める生活というものに、より一層高めてゆこうというお気持ちになっていただけると大変有難く思います。