最高最貴の御存在と自分
このように素晴らしい一歩一歩を歩ませていただく訳ですが、全ての御教えを手にして、自らの中に「教・論・律」を確立させつつ、大きな視点で御神業を推進することを心掛ける時に注意しなくてはならないことがあります。
その内容を解り易く説明するために、私の青年布教師時代に体験した内容を紹介します。
メシヤ様の真似をするということは、ある意味で大切なことであります。独自性というものは真似から始まるものであるという側面を持っているからです。学習がそうであります。勿論、追体験とはまさにメシヤ様の真似をするということでもあります。
ところが、最高最貴の御存在を超えることは不可能です。
二十代半ばの頃、本部で祭事講習を受けました。その折、研修の責任者である方が質疑応答をしたのですが、まさにメシヤ様の真似をされているのです。煙草を燻(くゆ)らせながら、質問に対して快刀乱麻のごとく答えようとされているのです。その姿勢は良しとしても、内容は必ずしも御教えに沿ったものではなのです。
参加者は神妙にしているのですが、私は“御教えと違うことを言っているじゃないか”という思いと共に、気恥ずかしささえ湧いてきたのです。ちょうど、素人のど自慢で音階を外して歌う人を垣間見ている気分に似ていました。
また、例えば御教えを読み込んでほとんど暗記するくらいになりますと、ともすると自分の文体や言い回しまでが御教えそっくりになってくる場合があります。神の座から記述していることを真似してしまうと、ともすると自分までその位にいるように錯覚してしまいます。かつて編集部という部署に所属したということから、そのような錯覚に陥りかけたことが自他共にありました。
今思うと、何のために編集部という望まない部署に所属する理由があったのか、ということを考えましたところ、やはり神の座と人間の座というものを弁えた文章作成に取り組むための修業期間であったのであろうと思います。
何故このようなことをクドクドとお話しするかと言いますと、真理を知ることの喜びとは別に、知ったことにより優越感が芽生えたりすることがあるのです。また、ともすると立ち居振る舞いが“上から目線”からのものになってしまうこともあるのです。優位性が前面に出ると、鼻を摘まみたくなる存在にもなり兼ねません。
今後の御神業が壮大であるがゆえに、推進すればするほど喜びや遣り甲斐が出てきますが、学習や体験を重ねるだけでなく人格を磨くことに重きを置いていただきたいのです。
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【この最後の文章は肝に銘じていかなければと思います。神格を頂く道の人格向上を毎日拝読しておりますが、自分の魂に何度も何度も刻むように日々取り組んでいても、中々難しいところがありますし、ふとした拍子に自分の良いように考えてしまい、いつの間にか慢心取り違えになってしまう事も少なくありません。鼻をつまみたく存在には決してなりたくありませんね。】