智慧証覚得るには御教え拝読は欠かせない
(質問者)
そうしますとその御経綸ということを自分なりに理解しようとすれば、普通の考え方ではなくて全く違うところからの考え方が無ければいけませんね。
(先生)
ですので、全く違うところからの考え方が必要というよりも、智慧証覚(ちえしょうかく)がないといけないということですね。それでこの智慧証覚(ちえしょうかく)を得るためには御教え拝読が欠かせないわけですね。ですから日々御教え拝読をしながら物事を見て行くと大体当たってくると思います。これが智慧証覚(ちえしょうかく)、叡智が閃(ひらめ)いていく生活になってくるのだと思います。そういうふうに捉えて行って頂ければいいんじゃないかなと思います。
(先生)
今度、主神様についてメシヤ様はどう仰っておられるのか、といいますと『この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根元であるというよりほかない。「宗教と科学」(無限 創刊号 昭和24年1月1日)』
と仰っておられますので、要するにこうして話している間にも拡がっているわけなのです。主神様という御存在というのは、我々がイメージとして摑んだと思ったらもう摑んだ瞬間から違う御存在になっている、というぐらい大きな御存在なので、その御存在に向かってお祈りをする時に「主之大御神守り給へ幸給へ」と唱えることによって主神様を限定してしまいますが、“表現し奉ることもできない、そういう尊い御神名をただいまから唱えさせて頂きます”という気持ちで先達者は「主之大御神守り給へ幸給へ」というふうに日々祝詞を奏上して頂きたいのです。
ですから、「主之大御神守り給へ幸給へ」という前に、本当は“表現し奉る言葉もないのですけども尊い御神名なので唱えさせて頂きます”という気持ちで、「主之大御神守り給へ幸給へ」と唱えると、少しでも主神様に真向かう姿勢ができて唱えられていきますからね。
これが朝拝、夕拝において一層想念を確立する上で持っておいて頂きたいと思うことです。
そして、後ろで参拝している人達も先達に続いて「主之大御神守り給へ幸給へ」と同じような想念で唱えるということが大事なことであると思います。
〇惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)とは
ですから、少し「惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)」も節回しが違うでしょう。今までとね。
二つの言葉がくっついて「惟神霊幸倍坐せ」になるのです。所謂(いわゆる)これはね、信者としては決意を述べる言葉なのです。ですから「主之大御神守り給へ幸給へ」というのは“尊い御神名を唱えさせて頂きます”という姿勢で唱えるのですけども、今度、「惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)」と唱える時には、“私は神様の御心のまにまに進ませて頂きます”という決意を以って「惟神(かむながら)」というふうに言わないといけません。
そして、霊幸倍坐せ(たまちはへませ)、“魂を大きくして頂いて幸せにして頂きますように”というのが霊幸倍坐せ(たまちはへませ)だからね。この想念を凝縮して惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはへませ)という言葉になっているから、「かむながら/たまちはへませ」と区切ってしまうとおかしいですが、その位の気持ちで唱えると、どんどん御心に我々の姿勢が近づいていくと思いますので、意識してお参りして頂けると良いと思います。