メシヤ様が御自ら御面会で示された「民主主義」の手法

代表先生 そして今岡田茂吉全集というのを拝読していった時に、大まかには、論文集、いわゆる全集で言えば著述篇、それから御面会の時の質疑応答でなった講話篇、そして詩歌篇と大きく3つで構成されている訳ですけれども、著述篇といういわゆる御論文というのは、メシヤ様は口述筆記して、こういうもんだと、神の言葉をドンと伝えている。しかし質疑応答、講話篇は、一人の代表者に今のように拝読させて、その後はみんなからの質疑応答に変わった。この質疑応答の形式は、メシヤ様は他の宗教の教祖とは違って、質疑応答形式を何故とったか、というと、実はここにある訳です・・、(真の)民主主義。そしてしかも、「そんなことメシヤ様に聞いてはいけないよ」とか言うような・・、普通ほら、前の会長さんにしろ、信者さんに向かって、「そんなこと(今の)会長に言っちゃだめよ」とか言うでしょ、その姿勢が封建主義になるんだから。だから民主主義は、誰もがメシヤ様に質問していい、という御姿勢をとられたのがこの講話篇、なんです。参加者

「質問してはダメです」とか、怪訝な顔をされてしまうとか、セーブされる、という事がありますね。

代表先生

だからもう、それが民主主義ではないということを、メシヤ様は身をもって御面会の時に示していった。だからメシヤ様は、そんなこと御教えに書いてあるような事、何故質問してくるのかということを、講話篇を読んでいくと、信者さんが質問しているのが一杯ある。それに対してメシヤ様はあまりにも行き過ぎの時は、ちゃんと御論文に書いてあることを、読み方が足りない、とお叱りになることもあるけれども、だいだい丁寧に御答えになっている。

その姿勢をメシヤ様は身をもって示された、身をもって示しておられたにもかかわらず、その後の人間達が威張り腐っている。○○○○会なんてその極みですよ。威張っている極み。何か報告すると、「なってない!」とかね、「馬鹿のチョンだ!」とみんなに言ってね。

参加者 そうですね。ほんとに馬鹿呼ばわりですね。

代表先生

でしょ。馬鹿呼ばわりでしょ。最高の御神格をお持ちになったメシヤ様でも、みんなからの質問に耳を傾けて徹底的に聞いて、そして救いを垂れてね。それにもかかわらず後に続いた者たちが威張ってね。質問したら、“何なんていうことを聞くんだ”という顔して答えてる。

それは何かというと、ものが分かってない。分からないから、質問がなってないとか、そんな質問を会長先生に言っちゃいけませんよ、ということを側近が言い出すんですよ。これがもう封建、カス、カスだらけということです。こういうふうにして○○之光教団の指導者達を見るとよく分かるでしょ。

(中略)

参加者

信者間に貫いた部分の封建というよりも、専従者の方たちの中が、ものすごく封建的だなと、すごく感じるんです。
それを家で、未信者の主人にちょっと話したことがあったんですが・・・。

「でも、宗教っていうのはいろんな人がくるから、ある程度封建的じゃないと秩序が保たれへんから仕方がないもんやと思うけどな」と。「そうせんかったらそれぞれが好きなことを言うから、『やっぱりこうだ!』と言ったら、そうしないと・・。逆にそうしない人は、切っていくぐらいじゃないと収集がつかない。会社とかじゃないから」

と何も知らない主人ですが、そう言ってた事があるんです・・・。

代表先生

だからそういった考え方が、いわば夜の時代の考え方なんです。それが封建思想。要するに、信者を「愚民」だと考えている。愚かな民だよと・・。だから、上がきちんと指導しないといけないよ、と。しかし、メシヤ様はそんな事は仰っていない・・。要するに庶民が賢くならないといけない、と仰っている。賢くなるために、どんどん御教えを渡されていかれ、メシヤ様のほうはそれこそ毎日御教えを御書きになられている。・・・毎日口述筆記をされている訳でしょ?庶民が「賢者になっていくため」に、メシヤ様はお出ましになっているワケ。で、みんなが賢い人間になっていく・・・。

参加者 そうか、「愚民」だったんだ(笑)

代表先生

そう、組織から言うと、「愚民」というより、もっと言えば「奴隷」。それが○○○○会なんかそうでしょ、○長の奴隷なんだから、みんな。借金までしてね。

ここで何を訴えようとしたかと言いますと、『文明の創造』を拝読させていただくことにより、魂の覚醒が促され思考を拡げることが許され、そして、御教えの電子化の作業を進める中で、“御教えの構成そのものが民主主義の範である”ということに気付かされる、ということなのです。

 

平成23年4月メシヤ講座より

 

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