御教え集28号 ③浄化作用について
それから人に瞞されるとか、泥棒に盗られるとか、相場や競輪で損をするとか・・・パチンコはしれたものですが・・・いろんな損をします。それから火事で焼けるとか、この間のような水害とかありますが、そういうこともやはり浄化作用なのです。それについてこういう考え方があるのです。すなわち倅が二人あります。一人は非常な道楽者で、親の金を使ってしようがない、一人は律儀全うで、親の心配をかけないというのです。これはどっちが親孝行か分からないのです。その家は先祖代々のいろんな罪を背負ってますし、それからその親の財産というのは、人をいじめたり苦しめたりして作った財産とすると、祖先はその罪を早く除ってしまわなければその子孫は繁栄しないので、そこで祖霊がついてそういう道楽者を作ってドンドン使わせるのです。ですから早く使ってしまえば早く罪が除れるのです。ところが律儀全うなほうの伜は、減らない様にし、かえって増やそうとするのです。これは早く除ったほうがよいのですから、大乗的に見るとイコール道楽者の伜のほうが親孝行ということになります。そこで、そういう道楽者の伜を治そうとして、いろいろ苦心惨憺しますが治らないのです。それはそういうことを知らないし、ぜんぜん思いもしないからです。そこで学校を怨んだり、傭っている主人を怨んだりするようになるのです。そういうわけで、いっさいのそういう苦しみは浄化作用ですから、その苦しみというものも、それが分かれば喜ぶというまでもゆかないが、そうクヨクヨする必要はないわけです。それで除かれるだけ除かれてしまえば、あとはないので良くなるばかりです。それと同じように、信仰に入ってから損をしたり、いろんなことがあります。これはたいへん結構なのです。それからまた熱心になればなるほど、そうなるのです。信仰がボヤボヤしている間はそうでもないが、これは熱心にやらなければならない、というようになってから損をしたりすることがありますが、これがたいへんにありがたいのです。これは神様が、お前は熱心だから大いに褒美をやろうとする。ところが入れ物が汚いから、これを掃除しようというわけで掃除をされるのです。それを待っておれば、それがきれいになった後は一度に良くなります。私が借金で苦しんだのが昭和十六年までの二〇年ですが、最初のうちは金が欲しくてしようがない、なんとかしてと思っても、駄目で、この借金の催促が苦しいのです。それに下手に動くと差し押さえになるのです。それで金が欲しい欲しいと思っているときは駄目なのです。そのわけが分かって、これは神様にお任せしておこう。食ってさえいればよいと思って、気やすく思った。そして昭和一六年にやっと返しきったのです。そうすると一七年からは、予定していたのより多くの金がドンドン入ってくるのです。ですから金なんかどっちでもよいと思うようになったときに入ってきたのですから、そう嬉しくもなかったのです。だからかえって欲しい欲しいと思って、いまいくら金が入れば助かる、というときには決して入るものではないのです。これはなにごともそうです。変な話ですが、女を思っていて、アノ女をどうにかならないかと思っているときには、決して女のほうでは振り向きもしないのです。それでアノ女なんか勝手にしやがれと思うようになると、かえって女のほうで来るのです。つまり逆になるわけです。それが真理なのだから、そこを本当に知ると非常に気楽になります。だから苦しいことが起こると、これは楽しいことの前提だ、これによって楽しいことになるのだと思うから、さのみ苦痛ではないということになります。ちょうど病気が起こって、熱が出て痛んだり苦しいが、これによって良くなると思うから、心から苦しくはないのです。それで病気のことはよく分かるが、ほかのことになると気がつかないのです。それで火事によって丸焼けになるが、これは非常に良いのです。これは祖先が、金銭的、物質的の罪穢れが溜っているから、そうなるのです。ですからよく「焼け太り」と言うが、焼けたために後が良くなるのです。それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。
(中略)
ですからいっさいの人間の苦しみというものは、病気ばかりでなく他のものもある。それで病気の浄化のときには他のことの浄化もちょうど同じに来るか、続いて来るか、どっちかなものだ、ということを知っていれば良いのです。ですから人間から毒素が減り、曇りが除れるということは、どうしても運が良くなるということですから、これを心得ていればよいわけです。それから神様は、人間というものは働かせるようにできているのですから、本当に神様の御意思の通りの働きができれば、その人は神様のほうでは重要な人ですから、なるべく病気で苦しまないように、長生きをするように、いつまでも働けるようにと、神様のほうでやるのです。ところがあんがい早く死んでしまったりするのは、神様のほうに対して、世の中のために間違ったことをしたり、間違った考えを持っているからして、どうしても神様のほうでは、その人を間引かなければならないのです。そういうことは一点の狂いもなくやられているのですが、ただ人間がそれを看破することができないだけのことです。
【御講話篇11 P247】