御教え集26号 ⑤自力はいらない、我慢しなくてもよい。
昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、いままではこみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっぱり一つの自力です。ちょうど分かりやすく言うと、だれも人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当いうと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それをなんとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したいこともしないということは、本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらないことに決まっているのですから、なんとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律はいらないのです。ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いといって一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうと思わないというのが本当です。私は酒を飲むなということは言ったことはありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪いことをしない、ずるいことをしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教がいままでになかったのです。そこで、なかったということは神様に力がないからして、そういう人間にすることができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、すべて外部的のそういったやり方だったのです。これもいままでの文明は全部そうです。だから医学もそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷やすというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。だいたいずるいことをするのでも悪いことをするのでも、あれは一つの趣味です。とてもおもしろくてしようがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗るということが、実になんとも言えないおもしろさがあるのです。ですからまじめに稼げば一万円稼げるのを、ああやればもっと少ないのです。いつか泥坊が、平均してみるとふつうの労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろのことを計算に考えると、一日いくらにもつかないというのです。それでは止めたほうがよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神のほうが支配して勝っているからです。ところが趣味がなくなるということは、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまうほうになる。そこで趣味がなくなるのです。またよく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人がたくさんあります。それでいつか聞いたことがありますが、君は嘘をつくが、いったいなにがおもしろいかと言うと、嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのがおもしろいというのです。嘘といってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度に信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それはたいしたものだなと言って喜ぶのです。そうするといつかしら煙になってしまうのです。そういうことがいくどもありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代わりに、嘘ということが分かると、こっちはよけいガッカリします。さらにまたびっくりさせる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、よほど気をつけなければならない。しかし私はこういう手があるから、このほうから手をまわせば押さえられないことはないが、とにかくお気をつけになったほうがよいです」というようなことを言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずることがあるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに趣味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらはなにかというと、つまり副守護神がおもしろいのです。
【御講話篇11 p80】