イスラム原理主義について

<質問者> それにしましても、テロの首謀者は、何千人もの人間を殺戮(さつりく)するにも躊躇(ちゅうちょ)しない、自滅も辞さないような心理状態にどうしてなれるのでしょうか?イスラム原理主義というのがどうもわかりません。

イスラム原理主義につては、これから各方面で報道されていくでしょうから、大切な点だけを押さえておきましょう。かつてイスラム世界は、近代化を図るに際し欧米を手本としました。しかし、汚職、貧富の差、環境破壊等々様々な問題が噴出し、結局イスラムの根本に立ち返ってイスラム社会が抱える問題を改善しようという運動が起きました。これが原理主義の起こりとされています。ただ私から見れば、その時‘戒律の精神’と‘イスラム世界の優秀性’を再認識しなかったのではないか・・・と考えざるを得ない訳です。とりわけタリバンに限ってみれば、イスラム教以外の戒律まで入っていると言われています。それから、政治に利用したことが教えの曲解、歪曲を招いていますね。「ジハ-ド」とは、本来‘神のみちを努力する’という意味であったが、拡大解釈され‘神のために死ぬ’つまり殉教となり、更にはそれが義務だとなったようです。

そこで、イスラム教の戒律の精神というものを辿って行きますと、‘人間は弱い存在だ’ということが根底にあります。私がかつて教えられたところによりますと、例えば豚を食べてはいけないという戒律は、‘人間は弱い存在なので、雑食の豚を食べると健康によくない’からだそうです。ラマダン(断食期間)も、元はといえば健康のためです。また、女性が眼以外を覆わなければいけないという戒律。これは、‘男性は女性の魅力に弱いので、女性らしい部分を見せてはいけない’ところから生まれています。この例を見ても、戒律は、弱い存在である人間を守るための‘神の愛の発露’です。

ですから、近代化を図るときに必要なのは、戒律の精神に立ち返り‘神の愛に応える’という姿勢です。神に心配を掛けない、自分づくりですね。男性が理性的になれば、女性の服装を自由にしてもよいということになります。そうした方向性です。メシヤの教えに『廃法府と立法府』というものがあります。社会悪が増えるから新しい法規を打樹てねばならないが、善人が増えれば法規の必要がなくなるから、‘国会が廃法府となるこそ、本当の文化の進歩である’というものです。人間が向上すれば、戒律が必要なくなっていくのです。神は、戒律を守ることもお喜びになるでしょうが、戒律を必要としない社会の実現をもっとお喜びになるはずです。戒律の強化は、精神の後退を招きます。

アメリカは、サリン事件以来新たなテロ対策を講じた、とありますので、オウムに付いても少し触れておきます。あの事件で、日本人はほとんど教訓を得ていないと言われています。テロ対策は勿論の事、若者がオウムに走った原因を鑑(かんが)みて、自らに人生の意義を問い直し、若者に人生を語る努力をしたか?ですね。相変わらず経済不況の話題ばかりではないですか。また出家というキィ-ワ-ドから、仏教の変遷を熟考したか?ですね。俗世界から隔離された山中に篭もって精神の安定を図るか、市井(しせい)に身を置きつつも精神の安定を図り人格形成に取り組むのか、「ウチは仏教だ」と言うからには考えてみたのか。ただ単に宗教批判を口にしただけではないですか。

出家しなければ救われないとするならば、精神の後退です。また、精神世界を求める上で、モノに頼ってしまったことは本末転倒ですね。グッズに頼るということは、本質的にオウムと同じ道なのです。そうしたことを、自分のところに置き換えて考えていくようにしていかなければ、よりよい社会は築けません。

イスラムの話に戻りますが、そもそもイスラム教というのはアラ-の下に正義と平等を貫いて、共に助け合うということを掲げる素晴らしい宗教です。そして、イスラム世界は、空位の桁を示す「0」を含めた数字の専用表記を発明したことからも解るように、優秀なのです。今年から21世紀と言うのも、もともとキリスト教世界には「0」の概念が無かったからですね。この点について言えば、ある時代まではイスラム世界の方が進んでいた訳ですね。その優秀性を再確認し、問題の原因を敵に求めず、自助努力をしていくべきでしたね。

人類は、最高神のご意図というものを求めなくてはいけません。「我が国家・・・」「我が民族・・・」というように主張しているうちは、お互いに程度が低いですね。ただ、本音を言っていたら、指導者になれないと言う国際社会の現実がありますから、馬耳東風ですかね・・・。

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