三千年来の罪穢れ

三千年の罪穢れについて

 

  • 我々の魂というのは主神様の分霊を頂いているので、本来は神性そのものなのですけれども三千年前から『夜の時代』になって、その癖がズーッと付いたので本来の神性が薄まっている状態です。

『本来魂なるものは一種の発光体であって、』

と言うふうに書かれておりますので、我々の魂は本来光っている訳なのですね。しかし、三千年来の『夜の時代』の癖がある為に、この魂の光が・・・、光の周りを曇りが覆っている為光りきれてないところがあります。この、光りきれていないと動物霊が跋扈してきますので、ついつい腹を立てたりですね、人の悪口、批判をしたりですね、自分が喋った事が何か問題になっていくという様な事が起きてきます。先月学んだ事を基に、魂が本来の発光体として輝き続ける状態にして行きたいという事を我々は願っている訳なのです。この発光体をより一層輝かせる為にどうしたらいいかというと、一つはですね、支部長代理が報告してくれたように『霊主体従の法則』にそって自分の心言行が『昼の時代』にふさわしいものであるかですね、喋っている事とかやる事とか行いとか、それから心の持ちようがですね、何時も清らかな事を目指しているかどうかという事が重要です。

しかし、目指してない分、曇りが発生する可能性があるという事です。曇りが発生する最大の理由は、その心言行によって相手から恨まれたり、相手が腹を立てたりする事が反映して、我々の曇りになって来ますので、そうした事の無いような心言行を心がけるという事が大切であります。

  • 「信仰というものを生活の中で生かしていきましょう。」という話をしても、今になって“何故こういうことをしないといけないか”というと、60年前に、まだメシヤ様が御在世中の先達の方々が、もっと噛み砕いて信者さん方にその御教えを手渡して、そして「日常生活の中でこういうことに心がけていきましょう。」というお世話をしてくれていたら、“もっと出来たはずなのになぁ”と私はもうツイツイ神様に不満をぶつけたのですよね、実は・・・。皆さん方に「覚りを啓け。」と言いながら、私は神様にちょっと文句を言った訳です。60年間、これだけメシヤ様の御教えがあるに拘わらず、“もうちょっと神界から先達にメッセージを送ってくれていれば良かったのに・・・”と思ったらですね、即座に答えが来ました。

こういうことは、神界から先達に言うと、神界からの『強制になってしまう。』と・・・。この強制しては絶対に上手くいかない、と・・・。

で、『昼の世界』を造る時に強制をしては、昼の世界は建設されないのだ、と。だから先達には言わなかったのだ、と。そういう指示はしなかったのだ、と。

そして、自然の流れで皆が御教えを自分の生活の中に取り入れて、生活がより良いものになっていくようになるのが、『これが神の御意図なのだ。』と御垂示をいただきました。それで私も“仕舞ったなぁ”と、“そういうことを言わなきゃ良かった”と思ったのですけれども、しょうがない。これは、私のまだ未熟なところなので、神様に対して時々反発したくなるところがあるものですから・・・。

  • 三千年来の罪穢れがズーッと蓄積してきた上に、今の私達の生活に様々な事象が起きておりますので、これを一発で解決するということはない訳であります。三千年間積み重ねたことですので、しかも三千年前穏やかな秩序が保たれていた時代に、自分達は本来の人間性を兼ね備えておりましたけれども、三千年間『夜の時代』が続いたために、自分は正しいと思っていても、実は私達には『夜の時代』の癖がビッシリと染み付いています。これを取り除いていくのが実は『浄霊』であり『御教え拝読と実践』であり『参拝』『奉仕』である訳です。

こうして立春祭に参拝させていただくのも行事があるから参拝するのですが、この参拝の根幹は“三千年来の自分の中に染み付いてしまった『夜の時代』の癖を取り除いてゆく”ということが一つの大きな願いとしてあります。私達が御教えに目覚めて真理を知る中で御神業に臨ませていただいていましても、一方では三千年間の罪穢れ、あるいはその癖が残っているということがあるからです。

それで昨日奏上した『神言』の一番最後に『此く持ち出で往なば荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百会に坐す速開都比売と言ふ神持ち加加呑みてむ此く加加呑みてば気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神根国底国に気吹放ちてむ此く気吹放ちてば根国底国に坐す早佐須良比売と言ふ神持ち佐須良ひ失ひてむ此く佐須良ひ失ひてば現身の身にも心にも罪と言ふ罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を聞こし食せと畏み畏みも白す』と締められております。

この締められた事を受けて実は『善言讃詞』の中で『無量無邊の大慈悲に天魔羅刹も服ひて諸悪邪法は改り 夜叉龍神も解脱為し 諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり』ということが進められていく訳であります。この節分祭をメシヤ様御自身は執り行わなくて良いということであるのですけれども、三千年前に正しい神様を押し込めた人間側はお詫びをし続けなければ神威というのは弥増してはいけない訳です。

ですから、祝詞というものの繋がりとメシヤ様が『善言讃詞』をこのようにお創りになられた背景というものをもっともっと今年は求めてゆきながら、三千年来の罪穢れを払拭しつつ『地上天国建設』を進めていくという取り組みを一層進めさせていただきたいと思います。

  • の三千年来の罪穢れのお詫びの‘罪穢れ’についてはまだ受け止め方が浅いので、人間としてそれが深まった上で来年を本番と受け止めて、来年の立春祭にそれぞれが持っている三千年間の罪穢れを十分具体化した上で御参拝頂ければ、一挙にその翌年から皇太子の御代になっていきますので、立春祭の時にお話しましたけれども、昭和が霊で、平成が体というふうに捉えた時には、平成は体の霊でありますので、皇太子の御代になった時に徳仁親王殿下が皇太子になった時に、体の体になってきますので具体的にメシヤ様が進められようとされた御神業が進むと同時に、地上天国建設というのが一挙に進んでいくという事が本当のこととなってくるのではないかと思います。

 

それで、三千年来の罪汚れは立春祭の時にお話しましたけれども、素戔嗚尊が武力を持って押し寄せてきたという、そのような性格が自分たちの中に色濃く残っているのか、あるいは、素戔嗚尊についてきた瓊瓊杵尊は、萩から上陸した時に、素戔嗚尊は中央に向かって動いていたのですけれども、瓊瓊杵尊は九州の高千穂に潜んで、そして素戔嗚尊の性格からすると、やがて世が乱れるので、その乱れた時に一挙に東征に出るという計画を立てて、その計画たるや、三代に渡って、高千穂に潜んでいたわけです。そして、乱れた時に、孫である神武天皇が一挙に東征してですね、出るときに、お米を日本にもっと作る方法はないかということで、ずっと高千穂で研究をしてですね、それで高千穂という名前が付いたわけなのです。それで、穂が付いているわけなのです。だから、今の「飴と鞭」というのは、神武天皇の治世からのやり方です。それから、会社とか、人を管理するときに、「飴と鞭が必要だよ。」というふうに言うのは、この神武天皇のやり方だというふうに受け止めて頂ければいいかと思います。

そうしたことを根底におくと、自分たちはどの性格を魂は持っているかということです。何かやりたい事を押し通すときに、武力を持って圧力をかけていくタイプなのか、あるいは、一旦人がやったことを失敗するまで待っていて、失敗した時にずっと出ていこうとする性格なのか・・・。それから、もともと大和民族は、伊都能売神王様は日本人の生命の危険を危ぶまれて、急遽皇位を天照天皇におゆずりになって、二十八部衆のみを連れて、インドへ下って行かれたのですが、日本人はそれについていかなかったわけなのです。だから一番尊敬する相手が皇位を失っても、次の武力で治める者に従っていこうというふうに思ったのか・・・。今世界救世教の中に残っている人たちは大半がそういう人たちですよね。「上の人たちがいろいろやっている問題なので信者には関係ないわ。上が変わっていけば、変わったように運営していけばいいのよ。」というふうな考え方ですので、その我々の魂というものが、どの系統に一番近いかというのをこれから一年間かけてじっくり自分自身を見つめていただきたいと思います。この見つめていくと、負のことばっかりを思うのですけれども、これは三千年間の癖ですけれども、一方では魂が持っている主神様の分霊として、魂をいただいている、その魂の一方では特性というのがありますので、この特性が更に発揮されていくと、世の中のためとか、人のために役立つことができるわけです。一方、負の方向に働くと罪穢れということになってきます。そうした事を合わせて自分自身の魂の特性とか、三千年の罪穢れというのを見つめていただいて、その見つめた上で、来年2月3日に節分祭に臨んで頂ければ、これによって一挙に地上天国が建設していけるスタートが切れるのではないかと思います。

 

  • これから来年の二月三日までですね、十分お詫びの内容が、それぞれ個人の中で具体化していくように、そうして深いお詫びをした時に、神界からは人類がお詫びをしたので、全面的に力を発揮するということに繋がっていくようであります。それが、○○さんが霊視で見たほんの数センチ開いた扉の意味するところだと思われます・・・。自分達の三千年来の罪穢れは何だったのか?というのをある程度自分達が自覚する中で、しっかり扉が開いたという内容になっていくのかと思います。そこから燦々とした光が見えたということですので、もう扉はこじ開けることができましたので、来年の二月三日には全面的にその扉を開くことができるように、私達のお詫び次第で一挙に岩戸は開けるというふうに思いますので、これからの取り組みをよろしくお願いしたいと思います。
  • 我々が三千年間というと、平均的には十回は生まれ変わって来ています。十回生まれた中で自分はどんな生き方をして、その時代時代を生き抜いてきたかというのを、少し振り返っていただければですね、自分の六十年間生きた人にとっては六十年の間にいろんな場面に出会った時に自分はどういう選択をしたかということの中から、“これはちょっと出雲系の癖があるなぁ”とか、“天孫系の癖があるなぁ”とか、あるいは“大和系だけれども行動力がなかったなぁ”とか様々なことが、我々の中に沸々と沸いてくると思います。『その沸いてきたものを見詰めて行った時に、真に主神様にお詫びする内容が明確になっていく。』ということですので、これから一年間ずっといろいろやらないといけないことがあります。神性を磨かないといけないし、魂が光輝いて動物霊に支配されないような、そういう人間を目指しつつ、三千年来の罪穢れは自分にとっては何かということを明確にして、そして来年の二月三日にはそういうものを持って大集結することによって真の節分祭を執り行うことができると思いますので、このことを今日は最初にお願いをさせていただきたいと思います。
  • せっかく浄霊をいただくことで霊の曇りが解消されても、さらにまた霊の曇りを発生させてしまうという生活を繰り返してしまっているので、そうしたことはこの“三千年来の罪穢れ”というところから私達は学んでいるわけです。それを改善していく生活に取り組まなければいけないということを教えられているわけです。

ですから、それでメシヤ様はまず“挨拶をしなさい、時間を守りなさい、掃除を心掛け整理整頓に取り組みなさい”とかいうことを日常的に教えられているわけですね。それなのに浄霊をいただきつつ、過去の布教所とか県本部の話ですよ、人の噂話をしたり、それからせっかく外で御用をしてきても、帰って来ると「あ~、もう疲れた」とか「今日は暑かったわねぇ」とか不平不満に近い言葉を吐いてしまうというようなことがあると、これは“曇りを発生させる”ということになってきます。実はお世話する側はその点をいつも見つめながらお世話をしていかないといけないのですけれども、お世話する人間もそういうところに気付いて行かないと、曇りを発生させつつ浄霊をいただくという生活になっていくわけですね。

  • これら「心の癖」とは、前世の生き様、霊界での生活、また育てられ方、出会った人からの影響等々、宗教を忘れてからの三千年来の間に染み着いた「シミ」 のようなものです。しかも厄介な事は、無意識に生じる心の反応であるということです。深層心理と解釈しても良いでしょう。自らの周辺に起こる事象に対する無意識の価値基準、行動規範として潜(ひそ)んでいます。

この「心の癖」を取り除くために用意された徳目(とくもく)等も、心の癖によって実行に移せない場合が多いですし、実行できてもちょっと油断すると元の木阿弥(もとのもくあみ)となってしまいます。課題をもって努力しても、心の癖はジワリと浮き出てくるのです。

浄霊は、人間の努力とは別のところで、直接心、魂に光を当てて、それを取り除いてしまいます。大変な効果です。よく「性格を変えていただいた」 と御守護報告があるのは、そのためです。簡単すぎて、かえって有難味がないと感じるかも知れません。

不断にしっかり浄霊をいただけば、必ず結果がでてまいります。その上で重要な事ことがあります。それは、心の癖を取り除くと共に、新たな発生を防ぐように努めるということです。防ぐには「自分中心の生活」から「神中心の生活」 へ切り換える必要があります。

 

  • 薬毒と三千年来の罪穢れからくる魂の曇りを甘く見ては大変なことになります。『夜の時代』の象徴的な精神の癖は、闘争心、敵愾心といった形で浮き出てきます。御神業に臨ませていただいていても、認識不足で進めていると『夜の時代』に染み付いた精神の癖に翻弄されてしまうのです。

そのために明主様(メシヤ様)教団であっても“和”が乱され、内紛・分裂が繰り返されてしまうのです。これの始末が悪いのは、自分が正しいと思っていることです。“和”を乱すことが目的で、その経緯は二義的なことであることが、御教えを深く求め続けなければ認識できません。御教えは、そうしたことを前もって教えられているのです。

取り分け布教師は因縁が深いと言われております。因縁は『夜の時代』に高位にいた者ほど深いことは自明の通りです。当然世渡りの上手さやある種の力も有しております。しかし、メシヤ様に出会って、善言讃詞にあるように『天魔羅刹も服ひて・・・』ということになるのです。この認識のあり方が肝腎なのですね。

以前「ご参拝の時に善言讃詞を唱えるのみならず、日頃から善言讃詞を心掛けることが大切である」ということをお話してありますが、言葉と共に中身を自らに質(ただ)してゆく姿勢が大切なのです。そのためにメシヤ様は、先達に『布教三訓』や『るナ三訓』の基になるご指導を繰り返されているのです。中でも『裁くなかれ』は必須中の必須なのです。

それは、『夜の時代』に高位であったことが、威張る、怒ることを常とし、自分を正当化する癖が残っているからです。それ故に三訓は深い意味があります。

 

 

 

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