『みんな光だ』の項

信仰生活とは、いったいどのようなものでしょうか。

どのような心を持ち、どのような言葉を口にして、どのような行動を取ってゆくことなのでしょうか。人として真の幸福を得てゆくには、どのような生活を積み重ねたら良いのでしょうか。

メシヤ様は絶対的な真理をお説きになられながらも、『それを採用するかしないかは相手のご随意である』という姿勢を貫かれ、無理強いをされませんでした。これは絶対的な自信に裏付けられたお姿であり、そこにこそ、メシヤ教における信仰生活の規範を拝することができます。

 

≪本文≫

いつでしたか、何をしている時か忘れましたが、明主様(メシヤ様)は、『日常生活の小さい事柄でも、私に関することは、みんな光なんだから、なるべく多くの人に話してやりなさい』とおっしゃられたことがあります。(側近奉仕者)

≪解説≫

『何時だったのか、何をしていた場面だったのか、を忘れてもらっては困る』というお声が聞こえてきそうな文章です。

今回は、この文章の前掲『御教えの実行者であられた明主様(メシヤ様)』(側近奉仕者)と併せて学ばせていただきたいと思います。

『わたし自身に守れているかどうか』

この項には『おまえたち側近者は、出来るだけわたしの日常生活を信者に知らせる義務がある。なぜなら、わたしがつねに信者に言ったり、教えたりしていることが、わたし自身に守れているかどうか、おまえたちの目でたしかめて、ありのままを書けばいいのだ』というお言葉が出てまいります。

メシヤ様ご自身が御教えの実践者であられ、しかも結果的に自信の塊(かたまり)のようなご日常を送られていたことがよく判ります。御教えの拝読の仕方が別項に出てまいりますが、そのことをご自身が率先垂範されていたのです。

『みんな光だ』と仰ったことは、ここにあると拝察されます。ご自身がお説きになり、ご自身が第一の実践者であられた。そのことが天国天人のお姿であり、真の幸福者像であり、日常茶飯事が『光』そのものなのです。

そういうことから、信仰生活の規範を求めることにおいて「景仰」は実践事例の宝庫です。その宝を私達は生かしてゆかねば、勿体ない訳です。私達が読み違いをしたり、取り違いをしたりしてしまいますと、宝の持ち腐れになってしまいます。

その意味では、前回も指摘したように編集の工夫が必要だったのですが、今となっては拝読の仕方を工夫するしかありません。そして、鏤(ちりば)められた輝きを我が物としていただきたい、と願います。

「教・論・律」の範を示されている

私達が『みんな光なんだから・・・』というお言葉の字面(じずら)に囚われてしまうと、取り違いをしてしまいます。ここでは、『私は時に応じて説く。まとめるのはきみたちだ』(教会長)というお言葉を重ねて考えておきたいと思います。

メシヤ講座の中で「教・論・律」について触れてきましたが、この考え方は実はここから来ております。

メシヤ様は、御教えを口述筆記されました。その模様は『スイッチを入れたテ-プコ-ダ-のように』(側近奉仕者)と記述されております。生き神様だからこそ、あり得ることであります。そしてその内容は「神様のお言葉」そのものです。

口述筆記されたお原稿は、『多い時は二十回以上も推敲に』(管長)とありますように、何度も朱を入れられ、原稿用紙は真っ赤になっていたそうです。『どう表現したら、もっと信者にわかってもらえるだろうか』(側近奉仕者)と心を砕かれたそうです。

口述された内容そのものは「教」です。そして、推敲されて人々に解り易くするために何度も手直しされてできたお原稿が「論」です。その時代に生きる人々が理解し易くなるように時代性を加味されて、添削されたものです。

そして、御自らが御教えの実践者であられたのです。その実践が「律」なのです。それこそが、私達における信仰生活の鑑そのものなのです。ですから、時の指導者は、絶えず「論」の展開に心を注ぐことに懸命に取り組み、尚且つ自ら実践者たるべく努めなければならないのです。

信者は、その後ろ姿を見て、共に実践に取り組むのです。

教団帰一が自然に生まれる道

こうした組み立てを積み重ねてゆくことが、後人の役割なのです。岡田茂吉教祖を戴く教団は、大きいもので十五教団ありますが、お互いがこうした取り組みを重ねてゆけば、やがて自然と一つになってゆく道が生まれると思われます。そうなれば楽しみなことです。

(平成18年3月メシヤ講座より)

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