御教え集19号 ③黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教である

今度『救世教奇蹟集』という本を出すつもりで、その「序文」だけ書きました。そしていままで発表しただけの奇蹟のすばらしいものを出します。それで結局宗教の価値といういうことですが、つまり宗教ではたいした奇蹟はないので、宗教以上のものでなければならないのです。宗教以上というと救世教より他にはありません。そこで救世教では他の宗教にない奇蹟が現われるわけです。いままでの宗教でも奇蹟があるにはあったがごく少ないのです。もっとも日蓮上人のような傑物になると顕著な奇蹟はあるが、一般信者にまではそれほど大きな奇蹟はありません。しかし救世教では、私の弟子がキリストがやったような奇蹟も行なうし、他の宗教の教祖がやるようなことは、信者さんでも十分現わせるのですから、そこに違いさがあります。だから奇蹟の顕著なことと多いことが宗教の値打ちです。ところが既成宗教はそういうことがないので、だんだん理屈の宗教になっていったのです。一般に対してはお説教宗教です。

だいたいお説教というものは宗教ではないのです。それは道徳です。「人間はこういう気持ちをもて」とか「こういう行いをしなければいけない」と言うが、そういう道理を説いて心を良くするということであっては、本当は宗教より下のものです。つまり道徳です。ところが奇蹟を現すことができないから、そういうやり方でお茶を濁していたのです。黙っていて立派な人間にするというのが本当の宗教です。だから私のほうでは、あんまりお説教はやりません。しかしそれも少しは結構です。ところがいままでの宗教はお説教専門なのです。また、「こういうように養生しなければならない」「こういうものを食って、こういうやり方でなければ、人間は病気がなおって健康にはならない」というのでは本当のやり方ではないのです。そういうのではしようがありません。黙っていても、疑っていても健康になる、というのが本当のものです。というのは、やはり宗教が持つ力です。その力を現わしたものが奇蹟となるのです。それで奇蹟は科学的にも説けるのです。だから本当は奇蹟ではないのです。よく奇蹟が現われるというが、それはどうしても理屈がつかないので「ただ不思議だ」と言うだけです。けれども本当は理屈がつくのです。それで「いろんな不思議なことがあって命が助かる」ということは、正守護神がやるのです。正守護神でも、信仰と霊的因縁によって力の強いのと弱いのとがあります。それからまた正守護神は一人ひとり人間を護っているが、その人間が徳を施し良いことをたくさんすると、その恵みが正守護神にも授けられます。その人が良いことをするのは正守護神が蔭で手伝うからですから、正守護神もそれだけ御神徳を受けるわけです。そうすると力を増すから、力が増すと、思うように助けることができるのです。ですから奇蹟もたくさん現われるということになります。だからこれは正守護神がやるのです。ところが中には、正守護神で神格を得ているのがあります。神格というのは、神様の位をもらった正守護神なのです。そういうのはすばらしい力があります。それからまたその人の系統によって、祖先が古くから産土神様に祀られている人は、その産土神様の力を分けてくれますから、そこでその人の働きも大きくなれば、また奇蹟も大きくなります。だからその関係が分かれば、奇蹟というのは不思議ではありません。ただ目に見えないから奇蹟だと思うのです。きわどいところで、死ぬと思ったものが助かるということがありますが、それは正守護神がやっているのですから、別に不思議ではありません。

 

【御講話篇10 P31】

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