八、治病の可能

八、治病の可能

既成宗教に於ては宗教的治病は不可として居るが、是位怪しからぬ話は無いのである。それは自己無能の糊塗でしかないのである。宗教は科学以上の存在と自惚れて居るにも拘わらず、病気を治し得ないし云う事は、化学所産の医学よりも劣ると云う自白である。科学以下の価値としての宗教これは宗教ではない。先ず宗教に似た論理乃至道徳でしかなかろう。しかしながら彼等は曰うのである。治病はしないが人の霊魂を救うのであると、しかし是は立派な詭弁である。魂が救えれば肉体は救えない筈がない。何となれば魂と肉体とは別々の存在では決してない。両者は融合一致して居るものであるからである。譬えて言えば肉体だけで心魂の無い人体はない。心魂だけで肉体のない人間もないのである。これ位割り切った簡単なことすら盲目にされて居る。次に新興宗教に於ては相当治療に専念し、又その効果も多少あるにはあるが、是等も病気によっては治るという条件付のもので、又其治病率も何パーセントの実績を挙げ得るかと云う事すら、明確に示されないのであるから、其効果は疑問たるものである。そうして治癒しないものは、信仰が足りないとか、行が間違って居るとか云う言訳付のものであるに於て、決して絶対力あるものではない事が解るのである。実際真の宗教治病力と云うのは、治癒力百%でなくてはならぬ。そうして信仰が浅いとか、深いとか信ずるとか信じないとか云う条件付であってはならない。信不信又は疑を持つ等は問題にならないのである。如何なるものでも無条件で全治する程の絶対力がある事こそ真の宗教である。故に此条件に合致した宗教は、恐らく一つもないのである。此の点に於て現在の新興宗教の治病などは、洵に微力なものであるから、社会からインチキ視せらるゝのも止むを得ないであろう。

以上八項目に分ちて解説せる宗教の条件や価値に対して既成宗教中一のパスするものすら無いであろう。否八項目中一項目さえパスする宗教も恐らく無いことは断言出来るのである。是に依って観ても、未だ人類社会に真の宗教は出現しなかったことは明かである。

前述の理由に依て見ても世間宗教と云えば必ず迷信を連想するが、是は間違って居ないのであって、全然迷信の無い宗教は無いのが実際である。実は凡ゆる既成宗教は真の宗教が生れる迄の過渡的産物であり、仮定的に真理を説いたに止まるのであって、全く真理の如きものを説いたまでゝある。仏教の神髄は真如であると釈尊の言ったことは、此の真理の如きものであると云う意味と思うのである。故に真の宗教が生れた暁、必然万教は帰一されない訳には往かないのである。八宗九宗何十派等と謂って、蝸牛角上の争をして居ると云う訳は絶対の権威と神力とを有する一大宗教が生れなかったからである。今や顕われんとする真の宗教が、如何に人類が未だ経験した事の無い歓喜と幸福とを与えらるゝ大威力あるものであるかは、事実によって万人が知り得るであろう。

(『内外公論』十五巻七月号、昭和十一年七月一日 著述篇2 P401 )

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